Cozy up!」(5月17日放送)に外交評論家・キヤノングローバル戦略研究所研究主幹の宮家邦彦が出演。トランプ大統領の来日の日程、そこから見える現在の日米関係について解説した。, 国賓として5月25日~28日まで来日するアメリカのトランプ大統領の滞在中の日程が固まった。27日の月曜日に安倍総理大臣と会談、また5月に即位された天皇陛下と外国首脳としては初めて会見し、宮中晩餐会にも臨む。更に総理とのゴルフ、大相撲の千秋楽の観戦の予定もあるようだ。, 飯田)25日の夕方に専用機で来日し、26日はゴルフと相撲、27日に首脳会談という日程です。, 宮家)これは大サービスでしょう。相撲もある、陛下との会見もある。そして国賓でしょう。アメリカではナルシストなんて悪口を言う人もいるけれど、自己愛の強い彼にとって非常にハッピーなことで、大喜びしてくれるのではないかと思います。アメリカの大統領ですから、それだけの価値があるのですがね。アメリカと日本の関係が非常に良好だということを象徴するような旅になるのではないでしょうか。もちろん、そのなかできちんとした議論をしなくてはいけないのですが、アジアに対して更に関心を持ってもらって、そして日本の中国、北朝鮮に対する懸念というものを何度も何度も擦り込んで理解してもらわなくてはいけない。大事な会議になると思います。, 【拉致被害者家族会・救う会合同会議】会議後、会見する(右から)飯塚繁雄さん、横田早紀江さん、横田拓也さん、横田哲也さん=2019年2月17日 写真提供:産経新聞社, 飯田)拉致問題ということで言うと、拉致被害者家族の皆様とも面会をするということです。前回来日したときも会っていましたよね。, 宮家)いままではリップサービスはしてくれても、ここまでやってくれる大統領はいなかったので、そういう意味でも画期的ではありますよね。, 飯田)菅官房長官が先日アメリカに訪問しましたけれども、大統領のみならずアメリカの閣僚たちにも拉致問題がかなり浸透して来ていると。やはりトップがこれだけの関心を示すと、下も付いて来るということはあるのですか?, 宮家)それはそうでしょう。普通であれば、トップが言わなかったら、拉致問題はもちろん我々にとっては大事だけれど、アメリカにとっては1つの重要問題でしかないと言ったら言い過ぎですけれども、我々の思うところとは違います。そのなかでトランプさんがあれだけ関心を持ってくれている問題を、下の人は聞かざるを得ないですからね。やらなかったらクビになってしまうから、真面目にやる…そういう好循環ですね。, ペンス副大統領との会談などのため米国へ出発する菅義偉官房長官(中央)=2019年5月9日午前、成田空港 写真提供:時事通信, 宮家)アメリカにとって、いちばん大きい問題は中国であることは間違いないのだけれど、報道でも出ていますが、自動車などは言って来るでしょう。大統領令を出すとか出さないとか言っているし。, 宮家)そんな大統領令などと言われても、我々の大統領ではないのだから、何を勘違いしているのだと思うけれども、あれも大統領選挙のための戦術ですよ。トランプさんにとっては2020年の選挙をどうやって勝つか、そして4年前に支持してくれた人たちの支持が弱くならないように、それをつなぎとめる為には「日本の自動車が、中国が」などとやって、何とか支持者の関心を高めようとしているのだと思います。, 飯田)そのために、貿易交渉のある程度の合意みたいなものを、アメリカとしては早く決着したいというモチベーションがあるのですか?, 宮家)そうですね。しかし、貿易問題について誤解を恐れずに言えば、トランプさんにとっては中国がいちばんの問題であって、日本やヨーロッパも大事だけれど、優先順位は低いと思います。だからある程度のものができればいい。ある程度のものと言っても、こちらにとっては大変なことなのですけれど、為替条項だってあるのだから。しかし残念ながら旧NAFTA、アメリカとメキシコとカナダの新合意で、新しい文書ができましたよね。あのなかにも為替条項が入っていますから、それで日本にも攻めて来ると思います。しかし最終的にはすべて中国を念頭に置いたものだと思います。, 飯田)そういう意味で言うと、アメリカとしては日本が離反しては困るけれど、という微妙な匙加減をするということですか?, 宮家)いつも言うことですけれど、日本はTPPがあって、アメリカがやっと合意したと思ったら抜けてしまったわけだから、TPPまでだったらまだいいのです。それ以上の合意なんてとんでもない話だと。出て行った奴にそんな偉そうなことを言われる筋合いはないですから、そういう意味では強気で行って良い部分もあると思います。, 【大相撲五月場所(夏場所)4日目】国技館を視察する米国の警備関係者とみられる一団=2019年5月15日午後、東京都墨田区の両国国技館 写真提供:産経新聞社, 飯田)安全保障面で言うと、シャナハンさんという人がいまは国防長官の代行をやっていますけれど、就任するであろうと言われています。6月にも日本に来て、そこでも防衛大臣、或いは総理とも会談をするのではないかと言われています。, 宮家)そうですね、これは順当でしょう。そして他に人がいないのでしょう。もう1期目の後半ですから。選挙が近付いているので、下手をしたら辞める人が出てくるわけで、実際にクビになったマティスさんの後でもあり、なかなかなり手が居ない。その流れでは順当な昇格ですが、まだ議会承認が得られていません。それほど強い反発があるとも思いませんけれどね。, 宮家)アメリカ国防省と、日本の関係は基本的に良いです。安保条約があって、米軍基地があって、いろいろな問題がある度に日本も言いたいことを言って、直させて来ていますから。良きにつけ悪きにつけ、国防省との関係が安保の問題ではいちばん大事で、幸い上手く行っている。それに大統領との関係も良いのですから、いまのところはスムーズに行っていると思います。, 飯田浩司のOK! 今年1月に第45代アメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプ大統領が、就任後初めて来日した。今日5日(日)から7日(火)まで滞在する。滞在中には、天皇皇后両陛下との会見や安倍総理との首脳会談の他、拉致被害者家族との面会やプロゴルファ  更新:2019-05-19, ニッポン放送「飯田浩司のOK! 歴代米国大統領の訪日. グラント大統領訪日エピソード 米国の元大統領で初めて日本を訪問したのは、ユリシーズ・シンプソン・グラント将軍です。 北軍の英雄であり、18代大統領としての任期を終えたグラント将軍は、夫人とともに世界旅行の途中、1879年6月に日本を訪問し、盛大な歓迎を受けたといわれます。  公開:2019-05-19 By - NEWS ONLINE 編集部 来日回数:2回 1983年11月 1983年11月9日、昭和天皇と共に、赤坂迎賓館での歓迎式典に臨むレーガン大統領とナンシー夫人 1986年5月 東京で開催された先進国首脳会議に出席した各国首脳の集合写真。左から5人目がレーガン大統領。1986年5月5日に赤坂迎賓館で撮影 ジェラルド・R・フォード (1974-1977) 1974年11月18日-22日. 米国大統領として初来日、田中角栄首相と会談. 国賓として5月25日~28日まで来日するアメリカのトランプ大統領の滞在中の日程が固まった。27日の月曜日に安倍総理大臣と会談、また5月に即位された天皇陛下と外国首脳としては初めて会見し、宮中晩餐会にも臨む。 トランプ米国大統領夫妻及びイバンカ大統領補佐官への贈呈品(平成29年11月6日) 河野外務大臣臨時会見記録(平成29年11月5日21時33分) 関連リンク 現職のアメリカ大統領として日本を初めて公式に訪れたのは、フォード大統領です。 1974年に国賓として来日し、昭和天皇と会見しました。 Cozy up! ユリシーズ・シンプソン・グラント(英: Ulysses Simpson Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争時の北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の1人である。, 軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。, オハイオ州クラーモント郡ポイント・プレザントで、ジェシー・R・グラントとハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。出生時の名前はハイラム・ユリシーズ・グラント(Hiram Ulysses Grant)。グラントの父親と母方の祖父は、ペンシルベニア州で生まれた。父親は製革業者だった。1823年の秋に、一家はオハイオ州ブラウン郡のジョージタウンへ移住した。グラントは、17歳になるまでほとんどの時期をそこで過ごした。, 17歳のときに、オハイオ州選出の下院議員トーマス・L・ハマー(英語版)からニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校への推薦を受け取った。この際ハマー議員は誤って「ユリシーズ・S・グラント」として彼を登録してしまった。しかし、グラントはそれが気に入ったようで、以降はその名前で通した[1]。また、ミドルネームのSは母親の旧姓のシンプソンから取ったとまで、周りに説明していた。グラントは、1843年に39人中の21番でウェストポイントを卒業した。, グラントは、1843年8月22日にジュリア・ボッグズ・デントと結婚した。2人は4人の子供(フレデリック、ユリシーズ・シンプソン・ジュニア、エレン、ジェシー)をもうけた。, グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍し、レサカ・デ・ラ・パルマ、パロアルト、モンテレーおよびベラクルス包囲戦に参加した。モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進し、チャプルテペクの戦いの後に中佐に昇進した。1854年7月31日に多量飲酒を理由に軍隊を辞職した。辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイ州ガリーナで父親の皮革・金物店の経理助手となった。, 南北戦争において、グラントは最優秀の将軍の一人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において、両軍を通じて最も優秀であったといえる。優秀な司令官を持たなかったために再選が危うくなったエイブラハム・リンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた。, 南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の10日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに自身が募った志願兵を連れて到着した。リチャード・イェイツ(英語版)知事はグラントを反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後、グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州へ派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン(英語版)知事は武装中立を宣言して、州に侵入する軍隊は南北どちらであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。, 同年8月、グラントは志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。8月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フレモント少将によりヘンリー・ハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる。, 1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し(ヘンリー砦の戦い、ドネルソン砦の戦い)、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した(シャイローの戦い)。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる。, 10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるビックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月4日にこれを陥落させた(ビックスバーグの包囲戦)。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日の翌日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部において南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。, リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクドウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てられることになる。, 1864年3月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。, 西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサバンナへの海への進軍を行った。その途上の各都市を破壊し、物資の略奪を公然と行った。南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。, 一方でグラントは、人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始した。荒野の戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都リッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに水路を押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンドおよびピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上して、さらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。, リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)、グラント率いる北軍に捕捉され、アポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これにより、その流れに合わせるように残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。, 戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に3つ星を中将位に改め[2]、4つ星の陸軍大将(当時の呼称はGeneral of the army of the United States)に任命し、その労をねぎらった。, グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会において、満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選挙では、合計5,716,082の投票中3,012,833票 (52.7%) を得票し勝利した。, グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠はないが、犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後でさえ強く反応しなかった。, グラントは熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であったが、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった。, 1860年代後半から、知人であったインディアン(イロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けも、インディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。, このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を、武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った。, また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った。, 大統領職2期目の終了後に、グラントは2年間世界中を旅行した。最初の訪問地はイギリスで、1877年のことだった。1879年7月3日から同年9月3日まで国賓として日本に滞在、浜離宮で明治天皇と会見し歓待を受けた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。グラント元大統領夫妻は、滞在中の8月25日に東京の上野公園で行われた歓迎式典に出席、妻ジュリアとともに来日記念に檜を植樹している[3]。増上寺では松を植樹した。また、日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった。, 1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し、マーク・トウェインの勧めもあって、回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に豊かな収入を与えることとなった。1885年7月23日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。, 髭を剃りおとした写真が1枚だけ残っている。夫人がカメオにグラントの横顔を入れたいと頼んだとき、彼は誤解して、渋々顎髭を剃ってしまったためである[5]。身長は6フィート(約183cm)だった[6]。