2018年早々、一人の日本人の若者がクラウドファンディングで資金を募り、アルゼンチンへと渡った。"科学"と"芸術"がせめぎ合うサッカー大国で監督論を学び、日本サッカーに挑戦状を叩きつける――河内一馬、異国でのドキュメンタリー。 気づけばあれから、1年の月日が経っていた。 元PRIDE コールマン氏が心臓発作 ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(スペイン語: Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードまたはミッドフィールダー。  タピア会長は、「彼の弟に状況を尋ねるためにコンタクトを取った」と話し、選手の代理人を務めるペレ・グアルディオラ氏を指すとみられる人物を通じての打診を行ったことを明らかにした。 2018年早々、一人の日本人の若者がクラウドファンディングで資金を募り、アルゼンチンへと渡った。“科学”と“芸術”がせめぎ合うサッカー大国で監督論を学び、日本サッカーに挑戦状を叩きつける――河内一馬、異国でのドキュメンタリー。, 気づけばあれから、1年の月日が経っていた。「サッカー監督という仕事について」連載を書き始めてから、月に一度パソコンの前に座っているこの時間は、文字通りサッカー監督というものだけについて思考を巡らせた。そのこと自体が、私にとっては何よりも有益な時間であったことは間違いなく、論考と言ったら大げさではあるが、頭の中にある整理されているのかいないのかわからないものを、このような立派な場所で書かせていただいたことに、まずは大きな感謝を申し上げたい。たいていの場合、話し手や筆者が冒頭で感謝の言葉を伝えた時、それは何かが終わる時である。ちょうど1年、延べ12回目をもって、この連載にも終わりが来た。, 1年間という月日は、短いようで長く、長いようで短い。連載1回目で書いたように、私は当時、言葉も話せない、住む街のことを何一つ知らない、そのような状態でこの地に降り立った。そんな日本人を、この国の人々は温かく迎えてくれたと、確かそんなように書いたように思う。到着から1年半が過ぎた今、言葉が話せるようになり、地図なしで街を歩くようになった。そして、この国の人々は、暖かいどころかアッツアツであることももう、十分にわかっている。, 私はこの国に、サッカーを学びに来た。サッカーを勉強したいという気持ちよりも、文化や歴史や、人々の暮らしぶりを知りたいと、そう思っていた。それをこの目で見ることは、人々の先頭に立ち、サッカーというゲームをプレーする「監督」というリーダーに、必要不可欠な気がしていたからだ。どうして、この国から、こんなにもたくさんの優秀な監督が輩出されるのだろう? その疑問を解消するにはもう少し時間がかかりそうだけれど、これまで書いた11回の連載をあらためて読んでみると、その「核」の周りに散らばっているキーワードの数々は、ある程度探ることができたのかもしれないなと、そう思っている。, ここで、11回分の「キーワード」を、もう一度あらためて並べてみたいと思う。アルゼンチン人は、日本人である(全然言葉が話せない)私を、指導者養成学校でも、ピッチでも、当たり前のように受け入れてくれた。ここでは、サッカーを勉強したい人間は、みんな、サッカーを勉強することができる。それによって集まった、年齢も、性別も、立場も違う人々が一緒になって、サッカーという一つのものを学んでゆく。年齢によってコミュニケーションの取り方が変化することのない文化もあいまって、21歳が50歳に向かって異議を唱えるなんてことが、ごくごく普通に、頻繁に起こっている。加えて、異なるバックボーンの人々がいると、そこにはいろいろな化学反応が起きてくる。一流の選手とそうではない選手が同じ空間で議論をし、指導者とジャーナリストが、男性と女性が、若者とベテランが、テクニカルコーチとフィジカルコーチが、皆同じ時間を共にする。サッカーという得体の知れないものを議論する上で、こっちの方が良いに決まっているよなと、今では当たり前になったこの環境にあらためて素晴らしさを感じている。, そんな多様な人々の注目を一挙に集めなければならない講師の先生や、思っていることをなんでも口にする選手たちを束ねなければならない監督は、皆、びっくりするくらい人前に立って話をするのが上手だ。生まれた時から「説得をする」文化があるこの国ならではの能力は、なにもすべてが暮らしの中で身についているのではなく、しっかりとその重要性が説かれ、指導者養成学校でもトレーニングを積んでいく。話す言葉のみならず、声の質や、身体的コミュニケーション(ボディランゲージ)まで、どうすれば「選手に最大限の物事を伝えることができるか」を、彼らは何よりも重要なことだと自覚しているのだ。, アルゼンチン人は、本当に、びっくりするくらい人間のモチベーションを上げるのが、うまい。それは「監督」として、彼らが持っている最も大きな強みだと思う。もちろん、これだけ正直で、なおかつ多様な考え方を持った人々がいれば、例えば現在の育成の方法論について、納得をしている人も、そうではない人もいるだろう。だけどそれぞれがそれぞれの理由で、自分の考えを信じているその姿は、なにを話しても説得力があり、根っこの部分では皆繋がっているんだなと、そう思わせてくれるのだ。これは私たちにはない、長い歴史や、壮絶な経験の数々からくるものなのかも知れない。, 暮らしの中で身についていく能力として、もう1つ彼らにとって大きな強みがある。それは「臨機応変に対応する力」である。この国は、本当に、何が起こるかわからない。明日どころか、1時間後のことが正確にはわからない。そんな状況で暮らしていれば、何事にも慌てず、すべてを受け入れ、起きたことに対して臨機応変に行動をしていく力は自然と身についていくのだろうなと、この国で暮らすと実感することができる。この力は、サッカーというゲームにおいて、選手も監督も非常に重要な能力であることは言うまでもない。たとえ講義の途中で予定をしていなかったところで「議論」が始まっても、それは彼らにとって慌てるものではなく、時には「子供がサッカーをする目的」について、答えのない「哲学する」時間を、ゆっくりとっていく。それは、いくら「元名選手現プロ監督」である人間が講義をする時でも、なに一つ変わらなかった。いつも通り、立場のない議論を、永遠と繰り返す。そんな「カオス」な状態を導く監督という職業は、まるで「ツアーガイド」みたいだなと、私はそのように例えた。サッカーという旅を成功させるには、旗を持って先頭を歩くツアーガイドがいなければならない。, とは言っても、とは言っても、彼らにもサッカーをする上で「マイナスに働くこと」が、たくさんあるように思う。感情的になりやすい(日本人の「感情的」のイメージの3倍くらい感情的なイメージをしてください)ところはその一つであるが、ちょっと待てよ、それすらも総合的には、長期的にはプラスに働いているのではないか?というのが私の答えだった。あとは皆さんが、それぞれ答えのない問いに対して「哲学する」姿勢を持っていただければと思う。, 私がこの連載で書いてきたことが、「アルゼンチン人監督が優秀な理由」と直接繋がっているかどうかはわからない。ただ、これを読んだ誰かが、「監督」という仕事を、さらに深く考えてゆくきっかけにさえなれば良いなと、そう思っている。これからの日本サッカーには、優秀な分析コーチや、テクニカルコーチ、その他スペシャリストは多く輩出されるはずだと、私は何の疑いもなく思っている。ただ、私たち日本人の特徴を加味すると、世界的に活躍するような強烈な「監督」、つまり「リーダー」が出てくるかどうかは、正直わからないところだと思う。それは私自身がこの地に「監督になるために」やってきたからこそ見えたものなのかもしれない。この連載が、それを打破する小さなきっかけになれば、筆者としてはこの上ない喜びである。, ちょうどこのコラムを書いている時、あるニュースが飛び込んできた。あのマラドーナが、私が住んでいる家から歩いて10分のところにスタジアムがあるクラブの、監督に就任するというのだ。たった今、アルゼンチン中でニュースが飛び交っている。マラドーナは私の連載の最後に、文字数を稼ぐためのネタを提供してくれたのだ。やっぱり彼は、神だったのかもしれない。この国が生んだ監督界の変人「マルセロ・ビエルサ」から始まったこの連載は、同国が生んだ選手界の(超)変人「ディエゴ・マラドーナ」で、気持ちよく締めさせていただこう。, 高度化するピッチ外の戦い。FFPを軸にモダンになったクラブ経営を読み解く。 ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(スペイン語: Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードまたはミッドフィールダー。, ペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアー、アルフレッド・ディ・ステファノ、ジーコなどと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である[2][3]。, アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、ボカ・ジュニアーズを経て欧州に渡った。FCバルセロナではさまざまな問題に悩まされたが、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回の立役者となり、「ナポリの王様」としてファンに愛され、在籍時に着けた背番号10番は永久欠番になった。セビージャFC、ニューウェルズ・オールドボーイズ、ボカ・ジュニアーズでの在籍は短期間に終わり、1997年に現役引退した。引退から時間が経った現在でも彼の信奉者はファン、選手、サッカー関係者を通じて多く特にアルゼンチンでは彼を「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街に彼を讃える祭壇が設けられているほどであり、自らのキャリアを汚す薬物スキャンダルなどもあったが、人間的な魅力に溢れた彼を愛する人間も多い[4]。, 1977年に歴代最年少でアルゼンチンフル代表にデビューし、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれた。FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986 FIFAワールドカップではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは彼を象徴するプレーとして後世に語り継がれている。, しかし、1994 FIFAワールドカップでは大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010 FIFAワールドカップ南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。, 1960年10月30日、ブエノスアイレス南部のラヌース (Lanús) に貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として脚光を浴び、9歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に加入した[5]。幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが[6]、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けていた[7]。1973年、12歳の時にはCAリーベル・プレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった[8][9]。少年時代の憧れの選手はCAインデペンディエンテのリカルド・ボチーニだった[10]。, 13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念し[11]、1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし[12]、15歳の誕生日にはクラブからアパートが提供された[13]。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった[14]。, 1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月でタジェレス・デ・コルドバ戦に初出場し[15]、同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた[16]。プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグで1979年、1980年に得点王を獲得。1979〜1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年〜1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した。, 1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日のスーペルクラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でCAリーベル・プレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった[17]。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、また彼は20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した[18]。, 1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた[19]。 カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。1982-83シーズン、開幕戦となったバレンシア戦で移籍後初ゴールを決めると [20]、序盤のバルセロナダービーでは決勝ゴールを決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ2回戦・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが[21]、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化し始めた。ウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされリーグ4位となったが、コパ・デル・レイ決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。, 1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任し、9月のハビエル・クレメンテ率いるビルバオ戦でゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷し、3か月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝を逃してしまう。