「非暴力・不服従」を武器に権力と戦い、インドを独立へと導いた人物。インド独立の父。. Mohandas Karamchand Gandhi (1869-1948) 一般にはガンジーと表記する。. ガンディー. インドと牛の関係について見ていきます。ヒンドゥー教の歴史の中で変化していった牛の存在意義や、その裏側に隠れた理由などを掘り下げていきましょう。 2017年6月、インドにおけるヒンドゥー教の様々な宗派が集う会議において、牛肉を食... スパルタについて詳しく見ていきましょう。過酷な教育や訓練で知られ、一時は古代ギリシャの覇権を握った最強の軍人国家です。 古代ギリシャに存在した都市国家スパルタは、今日でさえ映画や物語の題材になるなど、現代でも多くの人々の関心を... ドイツビールの歴史と種類について見ていきましょう。その発祥や起源を遡ることは、ビール好きでなくても知的な好奇心が湧くはずです。 ドイツと言えばビール。 毎年10月に開催されるオクトーバーフェストを始め、ドイツではビールが... シュメール文明の謎の中でも興味深い6つのことについて詳しく紹介していきます。シュメール人の神やノアの洪水の話につながった出来事を見ていきましょう。 歴史上最も謎多き人々とさえ言われるシュメール人は、古代メソポタミア文明の初期を... ペレストロイカとは何だったのでしょうか?簡単に、だけど十分に詳しく解説していきます。ゴルバチョフが主導した理由や、ソ連が崩壊に向かった背景などを見ていきましょう。 今日でも、ソビエト連邦(ソ連)の崩壊と、その結果である冷戦の終... 七大天使の名前や役割を一覧として紹介していきます。ミカエル、ラファエル、ガブリエルの三大天使に4人の天使を加えた上位階級の七天使達について見ていきましょう。 「天使」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じる人々のなかや、欧... 非暴力・不服従の思想と運動で世界的に尊敬を集め、「偉大なる魂」の意味である「マハトマ」という尊称を付けられた, これ以降20年近く、ガンジーは妻のカストゥルバと子供たちと共に、南アフリカに留まることになる, (破壊活動を鎮圧する緊急権限として、逮捕状を発行せずとも逮捕が可能で、裁判をせずとも投獄出来る権利をインド総督に保証した法律), アムリットサルでの抗議集会に参加していたインド人およそ400名が、イギリス主導の兵士達に虐殺される暴力事件, インドの少数派であるイスラム教徒の指導者「ムハンマド・アリー・ジンナー」や、不可触民の代表は、, 地理的に遠く離れている上に独立運動が続いていたインドを、植民地として支配し続けるには十分な体力が残っていない状態, 「今や東洋でしか見かけない苦行僧のような恰好をして、半裸で総督庁の階段を闊歩している挑発的な人物」, 彼らは我々を下品な「kaffir(アフリカの黒人)」と同じくらい低い地位に陥れようとしているのだ。, ダリット(不可触民)はインドのヒンドゥー教社会で抑圧された人々|人口数や職業など現状を見ていく. またある女性は「裸になり、ガンジーの腕に抱かれた」と証言した[37]。, ボースや弟子たちはそのことに関して、ガンディーを批判したが、ガンディーは聞き入れようとしなかったようである。ボースの本の中には、ガンディーとボースとの手紙のやり取りの中でこのように述べていると書かれている。, あるドイツの精神医学的人名辞典は、ガンディーのためにあてられた全8行ばかりの記事のうちの1行を割いて、彼が「一つのベッドで数人の女性使用人と眠った」という情報―――そのような習慣の時期や期間は明確にしないで―――を提供している。同様にアーサー・ケストラーは『The Lotus and The Robot』( London:Hutchinson, 1996)の脚注において、老年のガンディーは一人の若い裸の女性とベッドにいるところを英国の官憲にみつけられたが、彼らは賢明にもそれを公表しなかったと述べている。, しかし、エリク・エリクソン著『ガンディーの真理2』を翻訳した星野美賀子は、脚注の中でこれらの情報に対し「このゴシップは以下の事実を無視している。つまり、伝えられる事件のおりにはもう英国の官憲がガンディーを夜中に急襲することはなかったこと。インドの寝室のつくりにはベッドもドアもないこと、熱帯地方においては裸体は特別なものではないこと、そして、その事件全体は秘密ではなかったこと、を」と批判している[39]。, 晩年の女性とのブラフマチャリヤの実験に関しては、どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しい。エリクソンは、しばしばこれらの実験がガンディーの他の莫大な業績に先行して指摘されるのは、「結局のところ、偉大な混乱は偉大さのしるしでもありうる」からであろうと評した[39]。, ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ(मौन:沈黙)と シャーンティ(शांति:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンディーは37歳からの3年半、「騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらす」として、新聞を読むことを拒んだ。, 現代においてもガンディーは世界的に敬慕の対象となっている。アーメダバードには、ガンディーが1930年まで修行・活動した施設「サバルマティ・アシュラム」が現存しており、インド国内外から多くの来訪者がある。2017年6月の創設100周年記念式典には、インドのナレンドラ・モディ首相が出席した[40]。, 首都ニューデリーには、ガンディーが荼毘に付された場所に廟(ラージ・ガート)が建てられており、2018年1月30日の没後70年追悼行事にはモディ首相らが参列した。また、これらの顕彰施設代表者らでつくるガンディー研究評議会が活動している[41]。 」を繰り返し、手が折り畳まれるや、その場に倒れた。時計の時間は午後5時17分。服のあらゆる場所が血に染まり、おびただしい流血でガンディーの顔は青ざめていった。邸宅にある救急箱では傷を処置できる薬もなく、誰もが大声で泣いていた。家政婦が病院に何度も電話し、Willingdon病院に直行したが、絶望の結果がもたらされた。[14]」, ガンディーを銃で撃ったのはナートゥーラーム・ゴードセーで、ヒンドゥー原理主義団体の民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh,RSS)に所属していた[15]。イスラーム地域の分離独立をはじめ、ヒンドゥー教徒を犠牲にしてでもムスリムに譲歩するガンディーは「イスラーム教徒の肩を持つ裏切り者」[16][17]であるとの理由から暗殺に及んだ。胸腹部に三発の銃弾を受けたガンディーはその場に倒れて死亡、78歳であった。, 発砲直後に、ゴードセーは礼拝出席の群衆によって取り押さえられ、現行犯の形で逮捕。後に共謀者として、拳銃を調達したナラヤーン・アプテ(英語版)ほか数名も逮捕された。裁判ではゴードセーとアプテが死刑を宣告され、1949年11月15日に処刑された[17]。, ガンディーの葬儀は死去翌日の1月31日、国葬として営まれた。群衆の見守る中、 彼の亡骸はヤムナ河畔のラージガート火葬場にて荼毘に付され、遺灰はガンジス川や南アフリカの海に撒かれた[18]。なお、暗殺の舞台となったビルラー邸はインド政府に買い取られた後、現在はガンディー・スムリティ博物館(英語版)として一般公開されており[19]、彼が凶弾に倒れたその場所には石碑が造られ、そこにガンディー最期の言葉「ヘー ラーム (हे राम)」が刻まれている。, ガンディーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げた。彼は、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みた。実際、彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について(英語: The Story of My Experiments with Truth)』という題をつけている。, ガンディーは「非暴力運動において一番重要なことは、自己の内の臆病や不安を乗り越えることである」と主張した。ガンディーは自分の理念をまとめ、初めは「神は真理である」と述べていたが、後になると「真理は神である」という言葉に変えている。よって、ガンディー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味する。, 非暴力(アヒンサー;अहिंसा)の概念はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教(仏陀に代表される)、ジャイナ教の伝統において何度も甦った。また、彼の非暴力抵抗の思想は、『新約聖書』や『バガヴァッド・ギーター』の教えに特に影響されている。自らの思想と生き方を、ガンディーは自叙伝の中で書いている。以下にガンディーが語った言葉からの引用を列記する。, また、ガンディーは自分の非暴力の信条を実行に移すとき、彼は極限まで論理的につきつめることを辞さなかった。1940年にナチス・ドイツ軍がイギリス本土に侵入しようとした時、ガンディーはイギリス国民に次のように助言した。, また、1946年6月、ガンディーは伝記作者ルイ・フィッシャーにこう語っている。[20][21], ガンディーはカースト制度を、職業の分担という観点から肯定的にとらえており、カースト制度そのものの制度廃止には賛成しなかった。カースト制度を「ヒンドゥー教の根本的な制度」[22]として擁護し、称賛した。彼によれば「カーストは人間の本性であり、ヒンドゥー教徒はそれを「科学」に仕立てただけ」であり[23]、同じカーストとしか結婚できないという制限も「自己抑制を深める優れた方法」[24]であった。ガンディーにとってカースト制度は「分離されているが平等」[24]なのである[25]。, このような「カースト制度は容認しても、カーストによる社会的差別に反対する」姿勢は、同時期の政治指導者に多く見られる。このため、インドにおける仏教革新運動の指導者であるB・R・アンベードカルと意見を対立させている。, そのうちガンディーは自分がある種の自己矛盾に陥っている事に気付き、カースト制度とヴァルナを区別し、ヴァルナを好むようになった。ヒンドゥー教徒をバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの四階層に区分するヴァルナの法則は、彼によれば人が両親に似て生まれてくるのと同じ「遺伝の問題」[24]であった。, またヴァルナによって両親の職業を選べば、「精神的な目的の為専念する時間が増える」[24]ので、「幸福と深い宗教的生活の為の最上の保証」[26]であった。ただしガンディーは、ヴァルナを「神の創造物全体における絶対平等の法則」[24]ととらえており、ヴァルナの階層間に上下は無く平等なものだと考えていた。, 一方ヴァルナをさらに細分化するカースト制度に関しては「宗教と何の関係もなく、起源不明の習俗に過ぎない」[24]と考えるようになり、後年『カーストはなくなれ』という小冊子を発行した。, ガンディーはインドを初めて離れた時こそ肉食を試みたが、後に厳格な菜食主義者になった。英国では菜食主義者協会 (Vegetarian Society) の集会に参加して菜食主義運動家ヘンリー・ソールト(英語版)に出会い、この問題についてロンドン滞在中に何冊かの本を著した。菜食主義の思想はインドのヒンドゥー教およびジャイナ教の伝統、そして彼の故郷グジャラートに深く根づいており、ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者であった。彼は様々な飲食物を試した後、「菜食は体に必要な最低限度を満たす」という結論に達した。そして、日常の食事は穀物、豆類、果実、ヤギ乳、蜂蜜に限定していた[27]。ガンディーの菜食主義は「殺されるのを嫌がっているものは食べない」という信念に基づいており、「自ら実をつけて熟して実を落とすものをとるべき」という徹底されたものであった[28]。, ガンジーは金融資産も不動産も、全く持っていなかった。個人的な所有物は、以下のものだけだった。, 彼はこれらを側近に持たせ、ガンジーの行くところには必ず携帯便器を担ぎ、ヤギを曳いた弟子が従った。, ガンジーは著書『ヒンド・スワラージ(英語版)』で文明批判を語り、インドを貧しくするものとして鉄道・弁護士・医師を挙げ、鉄道はペストを広げるもの、弁護士は争いを大きくしようとするもの、西洋医学は人々の節制と自己治癒力を妨げるものと批判した[30][31]。旧友ヘルマン・カレンバッハ(英語版)との禁欲生活に関する議論が白熱した際、カレンバッハが愛用していた高価な双眼鏡も不要であるとして捨てさせたエピソードもあるという[32][33]。, ガンディーが16歳の時に、父が末期の病気にかかった。ガンディーは、父の臨床の場において精力的に看病に励んでいたが、ある夜、叔父が来て看病を交代してくれるよう言ってくれた。ガンディーはそれを快く引き受け、感謝の意を表し、寝室へと戻った。そこで、ガンディーは、部屋で寝ていた妻を起こし同衾している隙に、下僕がやって来て父の死を告げた。このため、ガンディーは、父の死に目に会えなかったのである。ドイツの心理学者エリク・H・エリクソンは、ガンディーの禁欲主義的傾向や、特に36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って禁欲を開始するなどのブラフマチャリヤの誓いを果たしたことには、この経験が大きく関係していると指摘する。, このような禁欲主義や苦行と密接な関連を持ったブラフマチャリヤ(心と行為の浄化、ブラフマンすなわち宇宙の最高原理の探求)は、ヒンドゥー教の苦行者の間で昔から行われていた。ガンディーのユニークな点は、結婚と家庭を維持したまま禁欲生活を送ったことである。ガンディーはこのブラフマチャリヤを自らの指導する非暴力不服従運動の基礎であると考えていた。また、それは神に近づくための手段であり、自己の完成のための重要な土台であるとも捉えていた。, 彼は13歳の若さでカストゥルバと結婚したが、自叙伝において、当時における性欲や過激な嫉妬などに対する戦いを語っている。彼は独身者でいることを自分の義務と感じたので、欲情によらずに愛することを学ぶことができるのだと考えた。ガンディーによれば、ブラフマチャリヤは「思想・言葉・行為の抑制」を意味する。, ガンディーはブラフマチャリヤを生涯追求し、1948年に78歳で暗殺される直前まで「ブラフマチャリヤの実験」を行っていた。しかしガンディーの弟子であったニルマール・クマール・ボースは『ガンディーとの日々(英語: My days with Gandhi)』において、ノーアカーリーにおけるガンディーの晩年のブラフマチャリヤの実験に関して、批判的見解が述べられている。このことは、ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』の中にも引用されている。彼らによれば晩年のガンディーは裸体の若い女性たちをぴったり体にくっつけて、ベッドを共にするのが常だった。こうした件を問い詰められたガンジーは、最初は裸の女性を横にして眠ると言うことを公然と否定し、その後「それはブラフマチャリヤの実験である」と言った[34]。, しかし、ガンディーの姪アバ・ガンディーはボーズの主張を認め、「結婚してからも彼と寝ていた」と証言したし[35]、もう一人の姪であるマヌや女医(厚生大臣であった時期もある)のスシラ・ナヤルも「ガンジーを暖めた女性であった」[36]。