一方アメリカにとっては価値ある勝利でした。, そしてミッドウェー作戦(MI作戦)が発動されますが、作戦研究はあまりにお粗末で、しかもアメリカに筒抜け。 昭和8年(1933年)に国際連盟を脱退し、外交交渉のチャンネルを自ら閉ざすミスを犯しました。, そして日本はドイツと接近し、昭和11年(1936年)にソ連包囲のための日独防共協定を締結。 この辺りは悲惨過ぎて私はなんとも言えません。, そして、米軍B-29の本土空襲とリンクした硫黄島攻略作戦が始まり、栗林中将の指揮下日本軍は奮闘しますが硫黄島の守備隊は散り、「超空の要塞」B-29は本土へ爆撃を開始。 とにかく日本は油田を持たないため、特に豊富な油田を持つ蘭印を獲得すれば日本の石油問題は一気に解決するため、喉から手が出るほどに欲しがっていたのです。, 昭和15年(1940年)9月、日本はまず北部仏印に進駐。 日本は撤退し、新自治政府を樹立せよ」と勧告しますが、日本はこれを拒否。 米英はもちろんこれに反発し、アメリカは日米通商条約の破棄を宣告し、イギリスは中国国民党へ膨大な物資を輸送し支援。, 昭和14年(1939年)9月にはヨーロッパでも、ヒットラー率いるドイツがポーランドに侵攻し、これに対し英仏はドイツに宣戦布告。 「連合艦隊の最期」と言われています。, そして、広島・長崎へ原爆が投下され、またソ連が中立条約を一方的に破棄し満州と北方領土の千島列島に攻め込み、8月15日以降も戦闘を続行。, そして、ポツダム宣言が受諾され、昭和20年(1945年)8月15日に天皇「堪え難きを堪え…」の一説で知られる終戦の詔書を天皇自らが読み上げた玉音(ぎょくおん)放送日本全国に流れ、よく晴れた暑い日だったといいます。 日本海軍にはタンカーなどの輸送船とそれを護衛する軍艦が大幅に不足し、また「海上護衛戦」の意識も欠落しており、タンカーは連合国軍に次々と撃沈され、日本は蘭印を手に入れても石油不足に苦しむことになるのです。 そして、戦艦大和(やまと)が沖縄で水上特攻し撃沈。 「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)将軍がマレー半島を制圧し、難攻不落の要塞・シンガポールも陥落。 1)を元に構成しました。, このwebサイトの先進的な機能は、ブラウザーのJavaScriptを有効にする必要があります。Thank you!, 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日本・中国の軍隊による小競り合いが発生(, 日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(, 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(. 特に石油の生産量の部分については、アメリカは700倍にも関わらずアメリカより保有数が多いです。, 世の中の成功している男性には様々な共通点がありますが、実はそんな夫を影で支える妻にも共通点があります。今回は、内助の功で夫を輝かせたいと願う3人の女性たちが集まり、その具体策についての座談会を開催しました。, 人の能力の差は言うほど無いと思いますが、なぜ一人辺りGDPは国によってなぜここまで違うのですか?, 戊辰戦争の際、薩長の新政府軍は、元込め式の最新鋭の銃を。一方、幕府軍は旧式の先き込め式。この差は?, ※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。 以後、アメリカに発見されることなく12日間もかけてハワイに忍び寄ったのです。, 日本は航海中もアメリカと外交交渉を続けていましたが、アメリカのコーデル・ハルは日本への最後通牒に等しい「ハル・ノート」を突きつけてきて、これは「中国・仏印から撤兵せよ。 そして真珠湾攻撃でアメリカを本気にさせ、太平洋戦争が勃発。, さらに本土に空襲を受け、広島・長崎へ原子爆弾が投下され、直後にポツダム宣言を受諾し、敗戦となりました。, 私はちょうど8月6日にこの記事を書いたのですが、「軍人も民間人も、なんと多くの人たちが死んだのだろう」という辛い気持ちになりました。, よくある言葉ではありますが、どうかこの過ちを繰り返さず、戦争が起こらず、人々が平和に暮らせるようになって欲しいものだと思いました。, また、私は城が好きなのですが、「空襲がなければ地元の岡山城も江戸時代からの姿を残せたのに…」なんてことも思ったりします。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, 皆さんは日中戦争や太平洋戦争の名前は聞き覚えがあるかと思いますが、「大東亜戦争」という名前は聞いたことがありますか?. これは中国に権益を持つイギリスや、中国の権益を狙うアメリカと対立を引き起こす羽目に。 そして8月28日には連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木基地に降り立ち、9月2日、戦艦ミズーリの上で降伏文書調印が行われました。, 英米からの日本への石油封鎖と、世界恐慌での締め出しで日本は蘭印の油田への野心を燃やして出兵。 アメリカも戦争はやりたくなかったのに、日本への怒りで戦うことを決意したということですね。, そして日本は真珠湾と同時にマレーやフィリピンも攻撃。 連合艦隊の大基地トラックは空爆で壊滅し、古賀連合艦隊司令長官も遭難死するという悲惨なことに。, マリアナ沖海戦では米軍がサイパンに上陸し、日本機は次々と撃ち落とされ、米軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と呼びあざ笑いました。 これは日本にとって呑めるものではなく、日米開戦は避けられないものに。 国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院 教授, 同時に英国海軍の燃料転換は新たな課題を突きつけた。石炭と異なり、石油資源の賦存は偏っており、英国には国内石油資源がなかったからである(英国が北海油田の開発を始めるのは50年近く先である)。このため、英国海軍の存立は輸入石油に依存することとなり、その安定供給が国家安全保障上の至上命題となった。そのことを最もよく理解していたのがチャーチル海軍大臣自身であった。英国はアングロ・ペルシア・オイル(後のBP)の株を取得し、石油安定供給の布石を打つ。“On no one quality, on no one process, on no one country, on no one route, and on no one field must we be dependent. 太平洋戦争 (日米戦争 ... 日本軍が将来のために備蓄していた余剰な石油は『約2 ... 石油・物資の供給能力と備蓄量から考えると、日米戦争がまともに継続可能な年数は『約2年程度』であることが、この段階から既に分かっていたという事になります。 当時はイギリスの要塞島だった香港も2週間で陥落し、東アジアから英軍勢力は一掃されました。 大正初頭から石油備蓄を拡大し、太平洋戦争直前には約840万キロリットルの石油備蓄量を保有していた。当時の石油消費量の1年半~2年分の量に相当し、世界最大規模であった。しかし1941年の南部仏印進駐は米国の対日石油全面禁輸を招き、日本は海外からの石油調達の大部分を失った。「こ … またろ号作戦で生き残った数少ないベテラン搭乗員たちも死に、「日本の誇った航空部隊は死んだ」ということに。, マキン・タラワから太平洋の「玉砕」が始まり、多くの輸送船が撃沈され、兵站(へいたん)が破綻。 お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, 太平洋戦争について 真珠湾攻撃は日本が自衛の為に仕方なく行なった事であり、太平洋戦争突入は日本の意思, アメリカは北朝鮮を空爆すると思いますか。 米韓軍事演習にはどれだけの駆逐艦 原子力潜水艦 航空機が参, 潜水艦軍事学に詳しい人に質問です。 日本は海面から垂直にミサイルを打ち上げることが出来る潜水艦を保有, 第一次世界大戦では、戦車、潜水艦、圧倒的火力を誇る戦艦が登場し、これまでにない犠牲者が出ました。 第, 太平洋戦争において原爆の投下は正当な判断だったのでしょうか。 例えば、 ・結果的にそれで日本が克服し, 【軍事関連・日本軍】 日本は1937年から日中戦争をしました 結果は太平洋(大東亜戦争)に負けてしま, 磯風 (陽炎型駆逐艦)は数々の決戦や大規模海戦などに参加し,大和,武蔵,金剛,大鳳などの連合艦隊主要, 艦艇を運用するには当然基地での補給や整備が必要になりますが 海上自衛隊を含む各国の海軍は 保有する艦. そして満州国は認めない」というもの。 当日、アメリカ太平洋艦隊には危機感はなく、なにしろ日本とハワイは約6500kmも離れていて、まさか日本軍が攻めてくるなど思いもしなかったのです。, 日本機動部隊が択捉島単冠湾(えとろふとうひとかぷわん)を出港したのは11月26日のこと。 Required fields are marked *. Save my name, email, and website in this browser for the next time I comment. なお、燃料局は、石油の大量買付けと備蓄を行うため、1937年末、石油関係18社の出資で協同企業(株)を設立した。同社は、翌1938年に石油71万kLを輸入し、1939年にはこれを陸軍に譲渡し、1940年に目的を達成し解散した。 NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Institute. 意味は「ワレ、奇襲に成功せり」。 さらに200機以上の航空機を破壊し、米軍の死傷者は3600名を超え、一方日本側の損害は少なく、日本の圧勝となりました。, そして、ワシントンの駐米大使館員は宣戦布告の文書を誤って真珠湾攻撃の後に渡してしまい、「だまし討ち」となってしまい、戦争での参加に消極的だったアメリカ世論はこれにより「リメンバー・パール・ハーバー」となり、「日本とドイツを叩くべき」ということに。 戦争中、米英連合国によりあらゆる対日輸送ルートは遮断されていたそうです。ガソリン一滴は血の一滴といわれていたとか。現実には、石油はどうやって調達していたのでしょうか?中国や満州にあったのでしょうか。よろしくお願いします。 ここで初めて大本営から「玉砕」の二文字が報じられました。, 日本は新防衛ライン「絶対国防圏」を設定しますが、米軍の進撃スピードは予想以上で、もろくも絶対国防圏は瓦解。 大日本帝国の終焉と共に自刃や特攻した軍人もいれば、多くの市民も自決したそうです。 世界最大の空母信濃は潮岬に沈みました。 1941年、日本は陸軍、海軍で有能な将校を選抜し、政府各省庁から有能な人材を選び、そこに製鉄、鉱業、海運、銀行などの民間分野の専門家まで含めて総力戦研究所という所を設立した。そして、「日本と米国が戦争をしたらどうなるのか」というテーマで研究所で数カ月間討論し、セミナーを開いてウォーゲームを行い、太平洋戦争をシミュレーションした。, ▶米国と戦争をするなら、短期戦ではなく長期戦を考慮しなければならない、奇襲攻撃をして被害を与えれば、講和条約を結べるというのは安易な考えだ。▶日本は「侍精神」を強調するが、米国も「ヤンキー精神」があるため、素直に屈服することはないだろう。▶増税を通じて当面の財政破綻を防ぐことはできるが、長期的には難しい。▶南方の資源地帯から石油を輸送するのは容易ではないだろう。▶米国と戦争すると必ず負ける。, しかしこの報告書を受け取った東条英機は「これは机で行われた演習なので実戦とは違う。日露戦争も日本が勝つと予想していなかったが、日本が勝ったじゃないか、実戦では理論と違う要素が発生してこそ勝利できる」と真珠湾を攻撃し、結局その研究所の予測がどれだけ正確だったかを証明するのに成功した。, ・当代軍部の常識人だった石原莞爾も、日蓮宗僧侶の予言があるから世界最終戦争で日本が勝つという話ばかりしていた, ・そもそも戦争しようと言った奴らも戦争を1年以上するつもりはなかったんだ。その背景となる考え方は全く違っていたが…, ・石原莞爾が予想した最終戦争の時期は、だいたい1960年代で、日本とアメリカの戦争というよりは、アジア文明と西欧文明の衝突の概念なので、少し意味が違います, ・事実、大きく違わない、むしろ石原莞爾は、世界列強が4強構図に固まり、「決勝戦」ではアメリカと日本が対決すると言ったので、むしろ当てはまることが多かった。, そして石原莞爾が思ったのはいわゆる「文明の衝突」論ともちょっと違う。世界で唯一正当で徳のある指導者は天皇だけで、日本人は、その天皇が直接治める民族で天皇の治めを伝える義務がある。, まず、アジアを天皇のおかげで統一させる「地域予選」が終わった後、「決勝戦」に進んだ日本とアメリカが激突する。, 日蓮宗の予言によって日本が勝利し、全ての戦争が終わると日本人は一等臣民として特権を放棄し全世界の民族と平等な臣民になる, ・日露戦争でバルチック艦隊すべてを水葬させ、太平洋戦争も真珠湾で米海軍に使える戦力をほとんど水葬させたのだから、単純比較をするなら似ているだろう。その結果が全く違っていただけだ, ・結果論的な既に知っている結果をもって組み合わせるのは無意味で、開戦前や序盤、いや中盤くらいまで日本の戦力は前はアメリカより確実に上だったし、中盤までやってみる価値はあった。戦力差が日本が確かに優勢だったのに結果的にはこう成った, ・ミッドウェー以後はずっと押されてばかりいたのに何言ってるんだ…序盤だけ一瞬にして、たとえミッドウェー占領に成功したとしても、日本は長期戦を行う能力に欠けていた, ・戦争初期の日本の戦力は認める。しかし、石油備蓄量が2年も無いのにそれで何をするのかと?, ・序盤、優勢は研究所でも予測して短期戦で終えなければならなかったが、その可能性は少なく、結局は長期戦で無条件行くと予測して「必敗」と予測したということではないか?, ・報告書一つ持って戦争やめる?軍部には勝つ公算があったし、実際にそれだけの力もあった, ・山本五十六は代表的なアメリカとの戦争に反対した人物。米国で勉強してきた両班なので、米国をよく知っていた。, それで真珠湾を奇襲したこともどうせしなければならないならこの方法以外に勝算がないと判断して賭博をしたのだし、ミッドウェーもこの様にしてこそ時間を稼ぐことができるとギャンブルしたのだが…ちょっとギャンブル中毒の気質があったって, Your email address will not be published. 大東亜戦争とは、大日本帝國と英米蘭中などの連合国との間で発生した戦争に対する呼称で、1941年に東條内閣が日中戦争も含めて「大東亜戦争」とすると発言。 敗戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止されましたが、一方で大東亜戦争の名前を用いるべきという主張もあり、歴史認識問題という点でこの戦争の呼称については議論されています。 要するに、太平洋戦争と日中戦争を合わせた呼び方が「大東亜戦争 … アジアにかまっている余裕はなくなるはずだ」と考え、しかも仏印や蘭印の宗主国のフランスやオランダはドイツに降伏し、政治的な余白が生じていて、南進して日本の勢力圏を拡大する絶好のチャンス!, 戦国時代で言えば、敵のいない城に攻め込む様なものでしょうか。 また日本はスラバヤ沖海戦で、イギリスが中国の蒋介石(しょうかいせき)国民党政権を支援するための「蒋援ルート」を遮断しようとしますが、ビルマでは敵主力を取り逃がし、援蒋ルート遮断も降下は上がらず。, そして日本軍は戦争の終わらせ方など次の作戦が決まっておらず、第二弾作戦は妥協の産物でした。, そして、日本機動部隊はオーストラリア領ニューギニアにある軍事基地ポートモレスビーを攻略するため珊瑚海でアメリカ軍と戦いますが、海戦には勝利するもポートモレスビー攻略作戦は失敗に終わり、日本軍の連戦はここでストップ。 さらに第一次世界大戦で日本は連合国側に立って参戦し、東アジアおよび南太平洋のドイツ領を攻撃し、これを手に入れましたが、これにより、フィリピンを植民地とするアメリカと太平洋でも対立することに。 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日本・中国の軍隊による小競り合いが発生(盧溝橋事件)。この事件をきっかけとして、日中両国は戦争状態に突入しました※。, ※戦争となると、国際法により戦争に関与しない第三国は当事国への支援を禁じられる。そのため海外からの物資を必要とし、国際的孤立を避けたい日中両国は宣戦布告をお互いにしなかった。したがって「戦争」という言葉は使えず、日本はこの戦争のことを北支(ほくし)事変、支那(しな)事変、日華(にっか)事変などと呼んだ。日中戦争というのは戦後定着した用語。. 第二次世界大戦が開始されました。 溥儀(ふぎ)を執政に祭り上げ、事実上の植民地を建設。, しかし米英の反応は早く、国際連盟に働きかけてリットン調査団を派遣。 All rights reserved. さらに9ヵ国条約で日本が得たばかりの山東省の旧ドイツ権益を破棄させ、これにより英米と日本との対立が本格化しました。, 昭和4年(1929年)に世界恐慌が起き、欧米列強は「ブロック経済化」を進め、イギリスやアメリカはそれぞれの植民地や勢力圏を関税障壁で囲い込みました。 ここでは、この戦争がどのようなきっかけと理由で始まり、日本とアメリカが開戦に踏み切ったのはなぜ?戦況はどちらに有利に進み、どう変化していった?, そして、最後は日本人なら誰でも知っているとはおもいますが、どういう結果に終わったか?, 大東亜戦争とは、大日本帝國と英米蘭中などの連合国との間で発生した戦争に対する呼称で、1941年に東條内閣が日中戦争も含めて「大東亜戦争」とすると発言。 新型空母大鳳(たいほう)も歴戦の空母翔鶴(しょうかく)も沈み、日本の機動部隊は壊滅。, また米軍がサイパンに上陸し、日本軍はまたも「玉砕」。 ナ)への南進, ハルノートと東條内閣の日米開戦の決定, 『三国同盟・第二次世界大戦の勃発』. 太平洋戦争で日本が圧倒的に国力や石油生産量で差があるにもかかわらず巡洋艦や駆逐艦を保有できたのは何故でしょうか。特に石油の生産量の部分については、アメリカは700倍にも関わらずアメリカより保有数が多いです。アメリカやイギ (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 当初日本軍部は短期間のうちに中国の蒋介石政権を屈服させられると考えていましたが、日中間の衝突は当初想定より大幅に長引き、資金や資源は逼迫していきました。, 折から戦争遂行に必要な物資を確実に調達するために、1938年3月に「国家総動員法」が制定されました。これはヒト・モノ・カネのすべてを国家の統制下に置くもので、単に経済を統制するにとどまらず、全体主義的かつ総合的な統制法でした。, ヨーロッパでは1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻。ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争が始まりました。これによりヨーロッパからの輸入が激減し、物価も急激に上がりました。日中戦争下で物資不足に悩む日本には大きな打撃となります。, ドイツは快進撃を続け、オランダとフランスも占領します。アジアにおいては、オランダは現在のインドネシアあたり(オランダ領東インド=蘭印(らんいん))、フランスは現在のベトナム・カンボジア・ラオスあたり(仏領インドシナ=仏印(ふついん))を植民地にしていました。, それ以前からドイツと接近していた日本では、蘭印や仏印に対する本国の統制が弱まったこの機に乗じ、資源の取れる東南アジアに進出するべきとする「南進論」が急速に台頭します。そして1940年7月、第二次近衛内閣は北部仏印(現在のベトナム北部)への進駐(軍隊を進め駐留させること)を決定しました。, 1931(昭和6)年の満州事変以来、満州国建国、日中戦争突入など中国への野心を隠さない日本に対し、日本がアジアにおける権益を独り占めするのではないかと、アメリカは警戒心を増していました。, そのような中、日本は1940年9月27日、それまで結んでいた日独伊三国防共協定を強化し、軍事同盟である「日独伊三国同盟」を締結。全体主義、軍国主義を掲げるドイツ、イタリアとの軍事同盟締結は、イギリス・アメリカを中心とする陣営に対する明確な挑戦と受け止められました。, 同年10月16日にはアメリカは日本に対するくず鉄と鉄鋼の輸出を禁止します。工業製品の基本的な材料である鉄を日本に与えないことで、日本の工業や軍備の抑制を図りました。, 欧米からの物資輸入がほぼ立たれた近衛内閣は、1941(昭和16)年7月23日、アメリカやイギリスなどとの開戦覚悟で南部仏印(現在のベトナム南部)へ進駐を決定。, これを受け、アメリカ、イギリス、オランダは日本の対外資産をすべて差し押さえ、ガソリンや石油の日本への輸出を禁止しました。, 日本はいよいよ資源供給を絶たれ、早期開戦を訴える声が軍の内外から上がります。石油をはじめとする日本の資源備蓄はわずかしかなく、時間が経てばたつほど軍事行動を起こすには不利になるからです。, さらに、好調に勝ち進むドイツがヨーロッパを制し、ソ連に勝つことが期待されたため、アジアにおける日本の立場はますます優位になると軍部は考えました。, 軍部を中心に開戦すべしという声が大きくなってきたものの、政府および軍首脳はアメリカと戦ってまともに勝てる見込みはないという意見も根強いものがありました。, 資源大国であり、工業生産力が日本よりはるかに上を行くアメリカを敵に回すことは軍事的に大きな賭けであることから、政府は交渉によってアメリカと和解することを模索し続けました。, アメリカとしては、日本のアジア大陸への進出は許容できないところまで来ていましたが、ヨーロッパ戦線でドイツに抵抗するイギリスを支援しており、大西洋(ヨーロッパ方面)と太平洋(日本方面)の両面作戦は避けたく、日本との交渉を引き延ばす方針を取りました。, そのような中、ヨーロッパ戦線に大きな変化が起こります。1941年6月22日、ドイツは不可侵条約(お互いの領地を侵略しないことなどを定める条約)を結んでいたソ連へ突如攻撃を仕掛け、怒涛の勢いでソ連領に侵攻しました。, しかし夏頃にはドイツ軍侵攻の速度は遅くなり、秋には前線は停滞し始めます。これを見たアメリカは、イギリスのチャーチル首相と相談をし、これまでドイツ・日本と不可侵・中立条約を結んでいたソ連を連合国側に引き込むことで、枢軸国(日独伊)側に十分対抗できると考えました。, 日本では、成果の上がらないアメリカとの交渉に対する不満と、資源供給が絶たれた焦りから、戦争開始へ大きく舵を切ります。, 9月6日、「帝国国策遂行要領」が御前会議(天皇陛下出席の下開催される、重要な国策を決定する会議)において「対アメリカ(イギリス・オランダ)戦争を行う決意で10月下旬をめどとして戦争準備を完了させ、外交交渉で10月上旬に至っても日本の要求がアメリカに通らなければ、直ちに開戦を決意する」ことが決定されました。, それでも、外交交渉を打ち切り、開戦に踏み切るかどうか、政府・軍部の間では激しいやり取りがなされました。, しかし、及川海軍大臣には確実に勝てる自信はなく、どちらかというと戦争を避けたいと考えていました。海軍の予測では、開戦後1,2年はアメリカに対し勝利を収めることはできるものの、双方の国力(工業生産力、資源など)の大幅な違いから、3年目以降は勝てる見込みが極めて低くなると考えていました。, しかし、東条陸軍大臣は一度陛下の前で決めた国策要領を撤回することは不可であると強く述べ、また開戦準備にまい進する陸軍部内を抑えきれないという見込みから、開戦を強硬に主張。交渉継続を望んだ近衛文麿(このえふみまろ)総理大臣は、事態の収拾が不可能であると考え、10月16日、内閣総辞職に踏み切ります。後任の首相として任命されたのは東条英機(とうじょうひでき)陸軍大臣でした。, アメリカ側では、日本への最後通告をどのような内容にし、またどのように出すべきか、議論が交わされていました。, スチムソン陸軍長官の11月25日の日記には、「問題はどのように彼ら(日本)を操って、われわれには余り過大な危険を及ぼすことなく、最初の一発を発射するような立場に彼らを追い込むべきかということであった」とあることからも、アメリカには日本と交渉して和平の道を探る意図はなく、時間稼ぎをしたうえで日本側からアメリカへ攻撃を仕掛けるよう仕向けることがアメリカ政府内の最大の眼目でした。, そして11月27日、国務長官(日本の外務大臣に相当)コーデル・ハルは、野村・来栖(くるす)両 在アメリカ日本大使に対して「ハル・ノート」と呼ばれる覚書を手渡しました。そのうち、特に日本にとって衝撃が大きかった項目は以下です。, これらは、1930年代からの日本の大陸における政策・軍事行動の破棄を求めるもので、時計の針を10年前の満州事変の前に戻せという主張に近く、当時の日本の情勢からは到底受け入れられないものでした。, この報告を受けた27日に開催された「大本営政府連絡会議」(軍部と政府の意思統一を図るための会議)において、ハル・ノート受け入れ拒否が決定され、開戦の方針を決定。, 12月1日の御前会議においてアメリカ、イギリスに対し開戦することが最終決定されました。, 開戦の方針が定まる前日の11月26日午前6時、今はロシア領となっている千島列島択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾から、空母6隻、航空機350機以上、戦艦2隻、重巡洋艦2隻を中心とする日本海軍空母機動部隊がハワイ真珠湾に向け密かに出発しました。, 機動部隊は日米交渉が妥結すれば途中で引き返すことになっていましたが、東京から届いた連絡は「交渉決裂」。そのまま真珠湾へと向かったのです。, そして、1941(昭和16)年12月8日午前8時(ハワイ時間)、日本海軍第一次攻撃隊183機はハワイ・オアフ島の真珠湾に浮かぶアメリカ太平洋艦隊奇襲に成功し、3年9カ月に及ぶ太平洋戦争は幕を開けました。, 天皇の名で発せられた「開戰の詔勅」(かいせんのしょうちょく)の原文は ➡ 【開戰の詔勅】米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(原文), 国際法では戦争を始める前には宣戦布告または最後通牒(さいごつうちょう)をしなければならないと定められていますが、日本から送られた暗号解読にワシントンの大使館員が手間取り、野村大使がハル国務長官に最後通牒を手渡したのは真珠湾が攻撃された約1時間後のことでした。, アメリカ側は日本の外交暗号を解読していたので、日本が最後通牒を送ってきていたことは真珠湾攻撃より前に察知していました※。, ルーズベルト大統領は12月7日(日本時間)に天皇宛に平和を願う旨の親書を送るなどしていましたが、これは最後まで和平の可能性を探る努力をしていたといういわばアリバイ作りでした。, そして最後通牒が開戦後になったことは、平和への努力が続けられている最中における日本の卑怯で屈辱的なだまし仕打ちだとして、アメリカ国内で大いに戦意高揚の材料として使われることになりました。, ※ただしいつどこに日本軍が攻撃を仕掛けるかまでははっきりとわかっていなかったので、ハワイへの通知は遅れ、真珠湾攻撃に間に合わなかった。, ヨーロッパ戦線でドイツ軍はモスクワを目前にしていたものの、ソ連軍の猛反撃と凍てつくような寒さの中一歩も進むことができなくなり、ついにヒトラーは全作戦の停止を命じました。, 日本がその命運を賭けて行った一大奇襲攻撃のまさにその時、日本が作戦の前提としていたドイツ軍の勝利は遠く消え去ろうとしていたのです。, 本項は日本経済史1600‐2000―歴史に読む現代、 日米開戦 (太平洋戦争への道―開戦外交史)、奇襲ハワイ作戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.