新元号の「令和」になる直前として、日本の国旗である「日の丸」を取り上げた。現在は国旗を掲げただけで「右翼的」と言われる風潮が見事に作られてしまったが、そんなものではない。世界に類を見ない歴史を持つ「日の丸」についてまとめた。是非、ご覧いただきたい。, 「日の丸」は非常にシンプルで面白くない国旗のようにも思う。私も小さい頃はアメリカの星条旗や他の国の少し難しい国旗を見て、かっこいい、と思ったものである。, しかし、「日の丸」の思いを知れば、いかにこれがシンプルでかつ美しいものかと思うようになった。一言で言えば「日の本」日本を象徴するデザインである。まさに空に浮かぶ太陽を象徴した国旗で、シンプルにそれを表現したものである。, 今は1種類が正式であるが、日の丸には2種類ある。一つは「日章旗(にっしょうき)」と言われるもので、現在通常で使われているものである。もう一つは「旭日旗(きょくじつき)」と言われ、大東亜戦争の「軍国主義」を象徴すると言われてしまった存在になっている。いずれも、空高く上がる太陽を示した物で、「日の本」日本にふさわしい国旗と思う。, ではこのようなシンプルな国旗はいつから使われているのか。これは諸説ありはっきりしない。それほど古いと言うことである。, 古代の古墳時代から「日の本」というのは意識されていた。飛鳥時代に変遷された古事記でも、初代天皇の神武天皇が、奈良の生駒山で負けた後にこう言ってその進路を変えている。, 「私は日の神の子孫として日に向かって(東に向かって)戦うのはよくない、日を背にして(西に向かって)戦おう」, こう言って熊野に迂回して近畿地方の征服を成し遂げた。このように日をあがめる考えは日本では定着していた。また、701年頃には文武天皇(第42代天皇)が「日の丸」の原型である「日像」の旗を揚げていたことは知られている。, また、平家物語で語られる「屋島の戦い」(元歴2年:1185年)で、弓の名手那須与一(なすのよいち)が、遠く離れた「日の丸の扇子」を見事居抜き、敵・味方から喝采された、というエピソードがある。, さらには、室町時代(1300年頃)の勘合貿易、豊臣秀吉や徳川家康の朱印船貿易などの船には、「日の丸」が掲げられていたという。当時、明確に「国」という概念がなかったにも関わらず、「日の丸」が日本の象徴として使われていたことは、実に興味深い。, そして、このような「国旗」の歴史は、大国では圧倒的に日本が最古である。日本の先人達は「日の丸」を自分の国を表す象徴として、誇りを持って使用し、敵・味方関係なく、自分の国の国旗として使用してきた。, 天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話の始祖で神武天皇より遙か前に生まれた神様である。「アマテラス」という名前が示すように、「アマ」である「天」を「照らす」神様で、すなわち「太陽神」と考えるのが普通である。なお、兄弟には月の「月読尊(つくよみのみこと)」、大地の「須佐之男命(すさのおのみこと)」がいる。, 天照大神は「伊勢神宮」に祀られて、日本の神々の頂点としての存在として慕われる。やはり日本は「日の国」であることの象徴とも言える。天照大神が天の岩戸に隠れた時に、世の中が全て暗くなったという神話の「天の岩戸隠れ」など、まさにその象徴と言える。, 卑弥呼(ひみこ)の時代になると、少し時代は降りてくる。とはいっても3~4世紀頃と推測されるから、今から2000年近く前の話だが。, ここで、「卑弥呼」という字に私は昔から違和感を感じていた。「卑しい巫女」という漢字にもみえ、なんでこんな漢字で習わないといけないのかと思った事を良く覚えている。, 実は「卑弥呼」という名前は、日本の国書(古事記・日本書紀)には出てこない謎の人物なのである。だから、卑弥呼がどこの人か「畿内説」「九州説」といった学術論争が起こるのである。ではどこで出てきたかというと、当時いわゆる「三国志」の時代であったChina(中国)の「魏(ぎ)」が書いた「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にその名前が出てくるのである。その時に「卑弥呼」という、いかにもChina(中国)の支配者がつけそうな、嫌らしい名前が付いてきた。, それを深く見てみたい。漢字にだまされるといけない、というのは日本古来の「やまとことば」を学ぶ人達が共通して言うことである。「ひみこ」と見たとき、「日の巫女」とみる方が、至って自然ではないだろうか。となると、実は「天照大神」と全く同じ存在ではないか、といった憶測まで立ってしまうが・・・。, とにかく、「卑弥呼」は「日の巫女」であると考えると、「日本」という国及びその国旗と全く整合する。, 「日向」という漢字をみて、ほぼ全員が「ひゅうが」と読むだろう。古代において九州地区で大きな勢力を持っていたとされるのが「日向族」である。しかし、この読み方を「日向」ではなく「ひむか」と読むと、これこそ太陽を尊重し続けた日本人が見えてくる。実際に「ひむかぞく」と読む。, 「日向」は今も九州に地名として残っている。しかし「ひむか」としてはあまり知られていない。そして、この「ひむか」の巫女が「ひみこ」であったとするのが、卑弥呼の「九州説」の一つなのである。, そしてもう一つ挙げておきたいのは、「出雲(いずも)」である。出雲大社で有名な出雲だが、神話の舞台として非常に重要な地である。これは日が直接は出てこないが、山の多い日本において空に「雲」がよく立ち上がる情景を表現した名称と言える。「出雲」というと日の丸と関係ないようにも思えるかも知れないが、空に雲が立ち上がる姿を想像すると、「日の丸」との関連を思える名前と思う。, そして今の時代の最も不幸なのは、これほど誇らしい「日の丸」あるいは日本の国旗を掲げると「右翼」と言われる風潮である。, 当然これは、大東亜戦争に負けてから、GHQを中心とした勢力が以前の日本を全て否定するいわゆる「自虐史観」を植え付けた事によるものである。しかし戦後70年以上経った今、GHQのせいにする話ではない。, 日本の中にいる「反日勢力」は、これほどの歴史と想いをもつ「日の丸」すら「軍国主義」という。あまりに下らないし、歴史を知らない浅はかな議論と言わざるを得ない。これが、China(中国)や韓国などのあからさまな反日国家がいうならまだわからないでもないが、日本人自身がこれをすることがいかに愚かなことか、是非知ってほしい。, 日本の「日の丸」に変な思想はない。ただただ、「太陽」を大事にし感謝する証としての旗である。日本を作っていった先人達が、2000年近くも大切にし心のよりどころとした美しい旗なのである。一度戦争に負けたくらいで色褪せる物ではない。大事にしていきたい。, もっと日本国旗を愛するといいと思う。それが、地域を愛し、国を愛し、自分を大切に出来ると思う。そして日本国旗には、それにふさわしい歴史と美しさがあり先人達の思いがある。, しかし、日本の国旗の歴史を知れば、日本人なら理解し誇りに思うと思う。是非、祝日には日本の国旗を掲げたい。かくいう私も、初めてではあるが、マンションの用の国旗を買ったので、「令和」となる2019年4/30~5/1は国旗を掲げてみようと思う。, 日出づる国、日本。 日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。 まずはアメリカの国旗についてですが、アメリカの国旗は日本では「星条旗」と呼ばれていますよね。 多くの人が地理の授業などで習ったかと思いますが、国旗の星は50個あり、 星の数はアメリカにある州の数 を意味しています。 日本の国旗は、一般的に「日の丸(ひのまる)」と呼ばれる事が多いですが、正式には「日章旗(にっしょうき)」といいます。 農耕民族だった古代日本人にとって、太陽はとても大切な存在で信仰の対象となっていました。 日本国旗の意味. All Rights Reserved. 明日は何の日かご存知ですか?多分ほとんどの人が知らないと思いますが、国旗制定記念日だそうです。, なぜ1月27日が国旗制定記念日なのかというと、1870(明治3)年1月27日に商船規則で国旗のデザインや規格が定められたことが由来となっています。, 諸説ありますが、日本国旗の赤い部分は日、つまり太陽を象徴すると言われています。また紅白は日本の伝統色でめでたいものとされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われています。, 皇室の祖先とされる天照大神は太陽の神で、古来より人々に恵みをもたらす太陽は信仰の対象とされてきました。, 飛鳥時代には聖徳太子が隋の皇帝に向けた国書で、有名な「日出ずる国」という表現を使用しており、このことからも太陽を強く意識していることがわかります。, その後の平安時代末期の源平合戦では、平氏が赤地に金丸の旗を、源氏が白地に赤丸の旗を掲げて戦い、源氏が勝利しました。平家が滅亡し、源氏による武家政権が誕生すると、代々の将軍は源氏の末裔を名乗って白地に赤丸の日の丸を掲げることで、天下統一を成し遂げた者の証として受け継がれていったといわれているそうです。もしもこのとき平家が勝利していたら、現在の日の丸は赤地に金丸になっていたのかもしれないようですね。, 来年はいよいよ東京オリンピック。数多くの日の丸国旗が一番高いところに掲げられたらうれしいですが、選手のみなさんには怪我無く精一杯がんばってほしいです。. 「日本国」の国旗の由来・意味 法律上は日章旗と呼ばれ、一般的には日の丸として親しまれている。1854年から国旗として使用され、1999年の「国旗国歌法」で正式に法で定められた。7:10の比率で、日の丸の中心が左寄りのものも許容されている。 なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的にハレとケの感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。, 現存最古の日章旗としては山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵の「日の丸の御旗(みはた)」が知られている[6][7]。寺の伝承では、この旗は天喜4年(1056年)に後冷泉天皇より源頼義へ下賜され、頼義三男の新羅三郎義光から甲斐源氏宗家の甲斐武田家に相伝され、楯無鎧と対の家宝とされてきた[6]。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している[6]。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市の賀名生皇居跡(堀家住宅)に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる[8]。, 江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。, 近世における船旗関連の資料としては、寛永期(1624~1644年)に描かれた江戸図屏風[9]の幕府船団の幟がある。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている[10]。また、1635年(寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[11]。東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。, また、1673年(寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。, 18世紀末から19世紀にかけてロシア帝国の南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた[12]。, 国旗としての日の丸は、幕末に船舶用の国籍標識(惣船印)として導入され、その後に船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化した。幕末における船舶用としての制定経緯としては、次の二つの説がある。, 歴史学者の松本健一や国文学者の暉峻康隆など、複数の学者の唱えるこの説が定説とされている。