B, @u—z‚Ì’¾‚Þ‚±‚Æ‚È‚«v‚Æ‚¢‚í‚ꂽ‘å’鍑‚ð’z‚«ã‚°A‚»‚ê‚𓝎¡‚µ‚½ƒnƒvƒXƒuƒ‹ƒN‰Æ‚̈̑å‚ȍc’éƒJ[ƒ‹‚T¢B”ނ́u’†¢ÅŒã‚̍c’év‚Æ‚àŒ¾‚í‚êA’†¢“IƒLƒŠƒXƒg‹³—”O‚É‚à‚Ƃ¢‚āA¬“ׂƂµ‚½ƒˆ[ƒƒbƒp¢ŠE‚É–ñ‚S‚O”NŠÔŒN—Õ‚µ‚Ü‚µ‚½B. 神聖ローマ皇帝の選挙規定などを記した「金印勅書」を書き、帝国議会はこれを承認し、帝国法となった。 その中で、神聖ローマ皇帝の戴冠はローマ教皇の許可が必要ないことを認め、選帝侯の特権を大 … フィリップ善良公(全妹 アニェス・ド・ブルゴーニュ) 父内4×4=12.5% 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 04:53 UTC 版), この一覧では、便宜のため、神聖ローマ皇帝に限らず、皇帝戴冠前のドイツ王(東フランク王、ローマ王)も含んでいる。また、本質的には次期皇帝候補(皇太子)であった共同皇帝や王、および皇帝選出権者である有力諸侯が分裂したことによって生じた対立王も含めた。さらに摂政となった皇妃なども補記した。, フランケン朝は、フランケン(フランコニア)の大公、コンラディン家(コンラート家)のコンラート1世(若王)が、東フランク王国の有力諸侯に推されてドイツ王になったことに始まるが、内外での争いが収まらず、1代限りで終わった。コンラディン朝(コンラート朝)とも呼ばれる。, ザクセン朝(リウドルフィング朝)は、ザクセン大公、リウドルフィング家のハインリヒが、宿敵のコンラート1世の指名と諸侯の選出によりドイツ王に即位することにより開いた王朝。皇帝となった2代目の名からオットー朝とも呼ばれる。, オットー2世の子母のテオファーヌが摂政(983年 - 991年)祖母のアーデルハイトが摂政(991年 - 994年), ザーリアー朝(ザリエル朝)は、フランケンのザーリアー家出身のコンラートが、ザクセン朝の断絶後に国王に選出されたことにより開いた王朝。前述のコンラディン朝と同様にフランケン朝とも呼ばれる。, このザクセン朝は、オットー朝とは無関係で、国王に選出されたロタール・フォン・ズップリンブルクがザクセン大公であったことに由来する。彼の家名は記録上、ズップリンブルク家、ズップリンゲンブルク家、ズップリンゲン家の3種がある。, ホーエンシュタウフェン朝(シュタウフェン朝)は、シュヴァーベン大公を世襲してきたシュタウフェン家の王朝である。, 以下は、戴冠をした「皇帝」の一覧である。ただし、マクシミリアン1世以降、ローマ教皇による戴冠を行わないまま、「皇帝」の称号(正確には"Erwählter Römischer Kaiser"「選ばれしローマ皇帝」)を使用するようになった。この場合は、下記の一覧で"ERK"と付記した。, 神聖ローマ皇帝一覧のページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, All text is available under the terms of the, 在位年: 帝国の統治者としての在位年。高等学校の教科書や、コンパクトな人名事典などで、皇帝の在位年として掲載しているものである。, 王位: ドイツ王に即位した年。在位中に後継者を王に選出・即位させることもあり、その場合は形式的には王が併存することになる。. 神聖ローマ皇帝カール4世が,1356年1月10日に,ドイツ国王(すなわち神聖ローマ帝国皇帝となる)の選挙制と選帝侯特権を主内容としてニュルンベルク帝国議会で発布した帝国法で,同年12月25日メッツの帝国議会で補足された。 勅書の印璽に黄金を用いたため金印勅書(黄金文書)と呼ばれる。 これを受けて、ハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ帝国の皇帝から退位。神聖ローマ帝国は約1000年の歴史に終止符を打つことになったのです。 しかし実際には、すでに1648年の時点で神聖ローマ帝国は終焉を迎えていたとする研究もあります。 皇帝に権力が一極集中するのではなく、各諸侯が大きな力を持つ権力分散型の国家になってしまった神聖ローマ帝国。 皇帝が君臨すれど、権力は微妙という、お世辞にも西ローマ帝国の後継国家と呼べるものではありませんでした。 ハプスブルク家の大帝国を築きあげた偉大な皇帝「カール5世」。ブルゴーニュで生まれ、母よりスペイン王位を受け継ぎ、祖父マクシミリアン1世の後を継いで神聖ローマ帝国の皇帝に即位。ヨーロッパだけでなく新大陸などに広がる広大な領土を統治する。 カール5世(Karl V., 1500年 2月24日 - 1558年 9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年 )。 スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる カール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年[1])。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる[2][注 1]。, ネーデルラントの領主フィリップ美公とカスティーリャ女王フアナの間に生まれた。母方の祖父母は結婚によって統一スペイン王国を誕生させ、のちにグラナダ王国を制圧しイベリア半島からイスラーム勢力を駆逐した「カトリック両王」ことアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王フェルナンド5世)およびカスティーリャ女王イサベル1世であった。さらに父方の祖父母は神聖ローマ帝国の皇帝であるマクシミリアン1世と、かつてヴァロワ朝フランス王国とすら互角に渡り合った大国ブルゴーニュの女公マリーという、当時のヨーロッパ王族のサラブレッドともいうべき血筋の生まれであった。, 「カール5世は~国の人間である」と言い切るのは難しい。なぜなら、統治領域の中心はスペインであり母フアナもスペイン出身であったが、カール5世本人は自分の生まれ故郷の低地諸国・フランドルに愛着を持っており[3]、言葉の問題から当初は馴染めなかったからである。現代スペインに続く金羊毛騎士団の継承・増員に見られるように、曾祖父シャルルのブルゴーニュ公国の継承者という自覚も強かった。それでもカール5世はスペイン王位についてから熱心にスペイン語を覚え、スペインを統治した。ちなみに弟のフェルナンドは兄とは対照的に、スペイン生まれのスペイン育ちであるが中欧の神聖ローマ帝国の帝位に就くこととなった。, また、父方からハプスブルク家の血を受け継いだローマ皇帝であるものの、ドイツ人とも言いがたい。カール5世はフランドルのガン(ヘント、現在はベルギーの都市)にて生を享けたが、母語は当時のフランドル貴族の公用語であったフランス語であった。, カール5世は必ずしもフランス人の血を色濃く引いているわけではなかったが、フランスとパリをこよなく愛した。当時の貴族の常として、西欧最大の都市にして西ヨーロッパ社交界の中心都市であったパリに数回滞在しており、フランス社交界でも「シャルル・カン」(Charles Quint)として知られていた。父フィリップも親仏派だったといわれるが、カール5世は「パリはもはや都市というより、一つの世界だ」(ラテン語:Lutetia non urbs, sed orbis.)と言ったと伝えられる。最もよく使ったのもフランス語だったが、皮肉なことに政治的にはフランス王と生涯にわたり激しい対立関係にあった。, スペイン王として、またローマ皇帝として、生涯かけてヨーロッパ全土を回り、北アフリカにまで足を伸ばしている。多言語話者であったと言われており、カール5世の言葉として伝えられる有名なものに"I speak Spanish to God, Italian to women, French to men and German to my horse." 「スペイン語は神への言葉、イタリア語は女性への言葉、フランス語は男性への言葉、ドイツ語は馬への言葉」というものがある。しかし、実際にカール5世が不自由なく完璧に話すことができたのは、母語のフランス語のほかは、スペイン統治者として本格的に学習・使用したスペイン語くらいであった。ドイツ語とイタリア語については完全ではなく、ラテン語も話せたが不十分であった[4]。, ポルトガル王ドゥアルテ1世 (全妹 ブルゴーニュ公妃イザベル・デ・ポルトゥガル、全弟 ポルトガル王子ジョアン) 4・4×4=18.75% カスティーリャ王エンリケ3世 (全弟 アラゴン王フェルナンド1世) 5×4・4=15.63%, [1]の父はポルトガル王ドゥアルテ1世。ジョアン1世の子で、弟にエンリケ航海王子や[3]の父ジョアン、妹に[2]の母イザベルがいる。よって、[1]と[2]と[3]は、共にジョアン1世を祖父とするいとこ同士となる。, 1500年にフランドルのガン(ヘント)で生まれ[5]、1517年までネーデルラントで育った。名前は曾祖父シャルル豪胆公にちなむ。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡った。残されたカールは叔母のネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュに育てられた[6]。少年時代の個人教師には、後に教皇ハドリアヌス6世となったオランダ人、ユトレヒトのアドリアンがおり、恵まれた環境で帝王学を学んだ[7]。さらに側近としてシェブレ侯やジャン・ル・ソヴージュ[8]、メルクリノ・ガッティナラ[9]らが従っていた。, 1506年、スペインに渡ったばかりの父が急死すると、幼くしてネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となった。1516年に外祖父フェルナンド2世が死去すると、スペイン語を解さなかったカールはブリュッセルにいながらにして母フアナと共同統治という形でカスティーリャ王になった。それは同時にアラゴン、ナバーラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた[10]。1515年、父方の祖父マクシミリアンによりハンガリーとボヘミアの王家であるヤギェウォ家との二重結婚が取り決められたが、アンナ王女がカールと弟フェルディナントのどちらの妃となるかはその時点では未定だった。結婚相手を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー側からは猛反発を受けた。しかしフェルディナントとアンナにとっては幸福な結婚となった。, 1517年に初めて「本国」スペイン入りし、トルデシリャスで母と再会すると[11]、バリャドリッドで摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始した。1519年にマクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらに叔母にして育ての母・マルグリットやフッガー家の支援を得て[12]、1519年6月28日には生涯の宿敵・フランソワ1世を破り、フランクフルトに集まった選帝侯達が全票をカールに投じてローマ王(ドイツ王)に選出した[13]。しかしこの選挙資金のために統治早々にして莫大な負債を負っている。1520年には戴冠式の途上、イングランドに立ち寄ってヘンリー8世夫妻と対面している。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカール5世の叔母だったからである。その後、同年10月22日に伝統に従ってアーヘンでローマ王としての戴冠を受けた[14]。ローマ王となったカール5世は祖父マクシミリアン1世の例に倣って教皇からの戴冠を受けることなくローマ皇帝と見なされた。, しかし戴冠式の最中に、ローマ王選挙に使用する懐柔工作資金(スペイン王国の国家予算5年分)の国外持ち出し、「外国人君主と外国人顧問、側近」の統治に反発していたトレドやセゴビアなどカスティーリャの諸都市が、カール5世がコルテスで新たに3年毎の40万ドゥカットの上納金と商品売上に対する税を課したことを端緒に一揆契約を結び、コムネロスの反乱が勃発した[15]。コムネロスの反乱は外国人幹部によるスペイン支配への抵抗から、貴族の特権に対する反乱へと変質していった[16] 。1521年にカール5世は1年余り続いたこの内乱を鎮圧したことで名実共にスペインの支配者となり[17]、強大な兵力を率いて生涯各地を転戦した。しかし、これ以降スペインはハプスブルク家の進める戦争への財物供出を余儀なくされ、カスティーリャやアラゴンからの税収やインディオの奴隷労働によってポトシなどから収奪された金銀はスペインの為に使われる事はなく、ハプスブルク家の利害のために使われ諸外国に流出した[18]。, カール5世は生涯フランス国王フランソワ1世・アンリ2世父子との戦争を繰り返すことになる。初めは1521年に北イタリアで争い[19]、後にイタリア全土を戦火に投じることになる(イタリア戦争)。1527年にはカール5世のドイツ人傭兵(ランツクネヒト)達がローマで狼藉を働いた。これがローマ劫掠である[20]。このような行為はカール5世の意図するところではなかったとされるが、実際はカール5世がランツクネヒト達に十分な報酬を支払わなかったことが原因だった。結果的にカール5世の軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がイングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。, ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムス帝国議会に召喚し[21]。結果的にルターの主張を認めず、同調者達と共に法の保護を剥奪(帝国追放)した。ここで処罰とまではいかなくとも逮捕・拘束しておけばプロテスタントの興隆を食い止められただろうと後悔することになるが、若い皇帝は身の安全を保障した約束を破ることを良しとせず、スペインの統治・フランス王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。, ヘンリー8世と同盟して行った対フランス戦争では1525年にパヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世を捕虜とすることに成功し[22]、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた[23]。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄した[24]。そこで1528年、サン・ジョルジョ銀行から融資を受けて、再びの抗争に入った(この間にローマ劫掠事件も起こった)。1529年にあらためてフランスとの間に貴婦人の和約と称されるカンブレー講和条約を[25]、ローマ教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保したが、その引き換えにブルゴーニュ公領を手放した(ブルゴーニュ伯領・フランシュ=コンテ地域圏は保持)。1530年にはボローニャでイタリア王、ローマ皇帝としての正式な戴冠式を行った。ローマ教皇によって帝冠を受ける儀式はこれが最後になる。1524年に起きたドイツ農民戦争とシュマルカルデン同盟の成立に際しては手一杯だったカール5世は、弟のフェルディナントを代行としてドイツ地方における政務を委託している(フェルディナントは1531年にローマ王に即位[26])。, やがてカール5世は、ヨーロッパを圧迫していたオスマン帝国スルタン・スレイマン1世との戦いにも身を投じるようになる。当時、地中海ではオスマン帝国艦隊が制海権を握り、陸上では1529年にウィーンが包囲されるまでになっていた(第一次ウィーン包囲)。しかしカール5世は1535年のチュニスにおいて勝利し(チュニス征服)[27]、1536年には宿敵フランソワ1世と対オスマン帝国同盟を結んだ。フランスがやがてオスマン帝国と単独講和してもカール5世は和睦しなかったが、1538年のプレヴェザの海戦ではローマ教皇・ヴェネツィア共和国と結ぶも敗退し、地中海の制海権を失う。最終的に1543年にフランスとはクレピーの和約を結び[28]、戦費の増大のためにオスマン帝国とも講和せざるを得なくなった。これにより、オスマン帝国との決着は息子のフェリペ2世に引き継がれることとなった。, カール5世は宗教問題解決のため、公会議の実施に尽力し、1545年のトリエント公会議の開会でその努力は実を結んだ[29]。公会議はカール5世の意図したルター派のカトリックへの改宗という成果はなかったが、カトリック教会の対抗改革の頂点となり、カトリック教会再生の里程標となった。, その間もドイツではシュマルカルデン同盟との戦いが続いていたが、ザクセン公モーリッツを味方に引き入れたことによって、戦況はカール5世に有利に傾き、1547年4月24日のミュールベルクの戦いで決定的な勝利を収めた[30]。同盟の2人の中心的指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを虜囚とすることに成功した。これ以上の内戦の激化を危惧したカール5世は1548年にアウクスブルクで暫定規定(Interim)を発令し、カトリックとプロテスタントのドイツにおける共存を提案した[31]。しかし1552年3月カールの新教に対する強圧的な態度に反発したモーリッツの襲撃を受けて逃亡、戦勝による優位を失った。この結果8月にルター派を容認する旨の和平交渉が結ばれ(パッサウ条約)、これを原型に1555年にアウクスブルクの和議が結ばれることになる[32]。, カール5世宮はアルハンブラ宮殿の中に建てられた未完成の宮殿である。この宮殿は画家のペードロ・マチューカが1526-27年にデザインした。工事は1568年まで行われた。, カール5世宮は正方形から構成されていて、正方形の一つの角を切り落として八角形のオラトリー(祈祷室)になっている。4つの入り口は正方形の各側面の中央に配置されていて、中央の円形中庭へ導ていくつくりになっている。この円形中庭はペードロ・マチューカがなくなった後にその子のルイス・マチューカによって建造されたがペードロのデザインに従って作られている。宮殿には2つの特色がある。1つ目は円形中庭の壁面構成は2層のドリス式・イオニア式のオーダが重ねて作られている。スペインではプラテレスコ様式が主流であったためそれとは異なった純粋なルネサンス的建築である。2つ目はアーケードではなく、まっすぐなエンタブラチュアが使用されていることである。, 1548年にはネーデルラント17州のスペイン王国およびフランスからの分離独立を認めている(1548年の国事勅定)。さらに1550年には「バリャドリッド論争」の名で知られる、アメリカ先住民(インディオ)の地位とインディアス問題に関する審議会を開いている。これは、インディオの人権問題をたびたび告発してきたラス・カサス神父らの長年の活動が実ったともいえるものである。最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサスの努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した、当時のヨーロッパ社会では非常に画期的な審議会となった。, 1555年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカール5世は、ついに退位を決意する[33][34]。フェリペだけでなく、弟フェルディナンド、姉エレオノーレ、妹マリアも出席したブリュッセルでの退位式では、「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。(略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」と言って、涙で演説がとぎれたという[35]。, 両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父から受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。これをもって、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系(のちのハプスブルク=ロートリンゲン家)とスペイン・ハプスブルク(アブスブルゴ)系に分裂することになった。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインのユステ修道院に隠棲し、1558年に58歳で亡くなった。晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていた。, 両親の血を引いて生まれつきアゴの筋力が弱く、下顎前突症であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であったため、多くの肖像画でも見られる通り、一見すると非常に下あごが突出しているように見え、常に口の開いた状態だったとされている。, 1526年3月10日にセビリアの王宮で、ポルトガルの先王マヌエル1世の王女で、互いに母方の従兄妹であるイサベル(イザベル、イザベラ)と結婚した[36]。前年の1525年にイサベルの兄ジョアン3世とカール5世の妹カタリナが結婚するという二重結婚であった。また、カール5世の姉レオノールは1518年にマヌエル1世の3番目の王妃となったが、マヌエル1世とは1521年に死別していた。, 人の良い性格であったため、貴族身分の母から庶子が生まれれば認知し、商人・工人身分の母から子が生まれれば修道院などへ入れた。うち有名なのは、ヨハンナ・ファン・デル・ヘインストが儲けたマルガリータ(1522年 - 1586年)と、バルバラ・ブロムベルクが儲けたレパント海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリア(1547年 - 1578年)である。事跡の不明な子女としては、祖父フェルナンド2世の後妻ジェルメーヌ・ド・フォワが儲けた女子イサベル (es) と夭折した子、オルソリーナ・デッラ・ペンナが儲けた女子タデア、母不詳の女子フアナ、などが知られている。, フェルナンド1世1037-1065 / サンチョ2世1065-1072 / アルフォンソ6世1072-1109 / ウラカ1109-1126, アルフォンソ7世1126-1157 / サンチョ3世1157-1158 / アルフォンソ8世1158-1214 / エンリケ1世1214-1217 / ベレンゲラ1217 / フェルナンド3世1217-1252 / アルフォンソ10世1252-1284 / サンチョ4世1284-1295 / フェルナンド4世1295-1312 / アルフォンソ11世1312-1350 / ペドロ1世1350-1369, エンリケ2世1369-1379 / フアン1世1379-1390 / エンリケ3世1390-1406 / フアン2世1406-1454 / エンリケ4世1454-1474 / イサベル1世1474-1504 / フェルナンド5世(共同王)1475-1504 / フアナ1504-1555, フェリペ1世(共同王)1506 / カルロス1世1516-1556 / フェリペ2世1556-1598 / フェリペ3世1598-1621 / フェリペ4世1621-1665 / カルロス2世1665-1700, ガルシア1世910-914 / オルドーニョ2世914-924 / フルエーラ2世924-925 / アルフォンソ・フロイラス925-926 / アルフォンソ4世925-931 / ラミロ2世931-950 / オルドーニョ3世951-956 / サンチョ1世956-958 / オルドーニョ4世958-960 / サンチョ1世960-966 / ラミロ3世966-984 / ベルムード2世984-999 / アルフォンソ5世999-1028 / ベルムード3世1028-1037, フェルナンド1世1037-1065 / アルフォンソ6世1065-1072 / サンチョ2世1072 / アルフォンソ6世(復位)1072-1109 / ウラカ1109-1126, アルフォンソ7世1126-1157 / フェルナンド2世1157-1188 / アルフォンソ9世1188-1230 / フェルナンド3世1230-1252 / アルフォンソ10世1252-1284 / サンチョ4世1284-1295 / フェルナンド4世1295-1312 / アルフォンソ11世1312-1350 / ペドロ1世1350-1369, ラミロ1世1035-1063 / サンチョ・ラミレス1063-1094 / ペドロ1世1094-1104 / アルフォンソ1世1104-1134 / ラミロ2世1134-1137 / ペトロニラ1137-1164, アルフォンソ2世1164-1196 / ペドロ2世1196-1213 / ハイメ1世1213-1276 / ペドロ3世1276-1285 / アルフォンソ3世1285-1291 / ハイメ2世1291-1327 / アルフォンソ4世1327-1336 / ペドロ4世1336-1387 / フアン1世1387-1396 / マルティン1世1396-1410, フェルナンド1世1412-1416 / アルフォンソ5世1416-1458 / フアン2世1458-1479 / エンリケ4世(対立王)1462-1463 / ペドロ5世(対立王)1463-1466 / レナト1世(対立王)1466-1472 / フェルナンド2世1479-1516 / フアナ1516-1555, カルロス1世1516-1556 / フェリペ1世1556-1598 / フェリペ2世1598-1621 / フェリペ3世1621-1665 / カルロス2世1665-1700, イニゴ・アリスタ824-851 / ガルシア・イニゲス851-882 / フォルトゥン・ガルセス882-905, サンチョ1世ガルセス905-925 / ヒメノ・ガルセス925-931 / ガルシア1世サンチェス931-970 / サンチョ2世ガルセス970-994 / ガルシア2世サンチェス994-1004 / サンチョ3世ガルセス1004-1035 / ガルシア3世サンチェス1035-1054 / サンチョ4世ガルセス1054-1076 / サンチョ5世ラミレス1076-1094 / ペドロ1世1094-1104 / アルフォンソ1世1104-1134 / ガルシア・ラミレス1134-1150 / サンチョ6世1150-1194 / サンチョ7世1194-1234, テオバルド1世1234-1253 / テオバルド2世1253-1270 / エンリケ1世1270-1274 / フアナ1世1274-1305, フェリペ1世1284-1305 / ルイス1世1305-1316 / フアン1世1316 / フェリペ2世1316-1322 / カルロス1世1322-1328 / フアナ2世1328-1349, フェリペ3世1328-1343 / カルロス2世1349-1387 / カルロス3世1387-1425 / ブランカ1世1425-1441, フアン2世1425-1479 / カルロス4世(王位請求者)1441-1461 / ブランカ2世(王位請求者)1461-1464 / レオノール1479, フアン3世(共同王)1484-1516 / エンリケ2世1517-1555 / フアナ3世1555-1572, アントニオ(共同王)1555-1562 / エンリケ3世1572-1610 / ルイス2世1610-1620 / フランス王位へ統合, フェルナンド1512-1516 / フアナ1516-1555 / スペイン王位へ統合, ルッジェーロ1世(伯)1072-1101 / シモーネ(伯)1101-1105 / ルッジェーロ2世(伯)1105-1130, (王)1130-1154 / グリエルモ1世1151-1166 / グリエルモ2世1166-1189 / タンクレーディ1189-1194 / ルッジェーロ3世(父と共治)1193 / グリエルモ3世1194 / コスタンツァ1194-1198, エンリーコ1194-1197 / フェデリーコ1世1198-1250 / コッラード1250-1254 / コッラディーノ1254-1268 / マンフレーディ1258-1266, ピエトロ1世1282-1285 / ジャコモ1世1285-1296 / フェデリーコ2世1296-1337 / ピエトロ2世1337-1342 / ルドヴィーコ1342-1355 / フェデリーコ3世1355-1377 / マリア1377-1401 / マルティーノ1世1390-1409 / マルティーノ2世1409-1410, フェルディナンド1世1412-1416 / アルフォンソ1世1416-1458 / ジョヴァンニ1世1458-1479 / フェルディナンド2世1479-1516, カルロ2世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ3世1665-1700, カルロ1世1282-1285 / カルロ2世1285-1309 / ロベルト1世1309-1343 / ジョヴァンナ1世1343-1382 / カルロ3世1382-1386 / ラディズラーオ1世1386-1389, ラディズラーオ1世(復位)1399-1414 / ジョヴァンナ2世1414-1435, アルフォンソ1世1442-1458 / フェルディナンド1世1458-1494 / アルフォンソ2世1494-1495, カルロ4世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ5世1665-1700, 欧米語では、欧米の歴史上の人物の名前は自国語で表すことが多く、この人物の名はドイツ語ではカール、スペイン語ではカルロスであるが、スペインではCarlos I de España、Carlos V de Alemania, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=カール5世_(神聖ローマ皇帝)&oldid=80199098, 鈴木博之編集 『世界の建築 第6巻 ルネサンス・マニエリスム』 学習研究社 1983年初版発行 1984年第2刷発行, ピーター・マレー 訳 桐敷真次郎 『図説世界建築史 第十巻 ルネサンス建築』 本の友社 1998年9月10日 初版発行.