第40回(2010年) キンシャサノキセキ 第57回(2007年) ダイワメジャー 第43回(2013年) ロードカナロア 第16回(1966年) ヒシマサヒデ 第30回(1980年) ブルーアレツ 第48回(2018年) ファインニードル 第12回(1995年) トロットサンダー 道日高郡新ひだか町静内目名491-2, [ 農事組合法人 レックススタッド ]. 第51回(2001年) ブラックホーク 第36回(2006年) オレハマッテルゼ 第32回(2015年) モーリス 国際G1昇格後: 第28回(2011年) エイシンアポロン 第44回(1999年) グラスワンダー 第26回(2009年) カンパニー 第35回(2018年) ステルヴィオ 第58回(2008年) ウオッカ 第38回(2008年) ファイングレイン 第36回(2019年) インディチャンプ, 国際競走指定前: 第05回(1988年) サッカーボーイ 第21回(1991年) ダイタクヘリオス 第59回(2014年) ジェンティルドンナ 第66回(2016年) ロゴタイプ 第35回(1990年) オグリキャップ 第63回(2013年) ロードカナロア 第10回(1993年) シンコウラブリイ 第50回(2000年) フェアリーキングプローン 第11回(1966年) コレヒデ 第29回(1999年) マサラッキ 第45回(2015年) エアロヴェロシティ 第21回(1976年) トウショウボーイ 第16回(1999年) エアジハード 第32回(1987年) メジロデュレン 第12回(1962年) トウコン 第41回(1991年) ダイイチルビー 第07回(1990年) パッシングショット 第17回(1967年) ブツシヤン 第20回(2003年) デュランダル 第34回(1984年) ハッピープログレス 第19回(1974年) タニノチカラ 第45回(1995年) ハートレイク 第10回(1980年) リンドプルバン 第23回(1973年) ハクホオショウ 配合のヒント. 第21回(2004年) デュランダル 第39回(1994年) ナリタブライアン 第41回(2011年) キンシャサノキセキ 第11回(1994年) ノースフライト 第52回(2002年) アドマイヤコジーン 第22回(1992年) ミスタースペイン ホーム . 第65回(2015年) モーリス 1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬[† 1]、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬[† 1]。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など多数。, 競走馬引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。種牡馬引退後は優駿スタリオンステーションで功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢脛骨を骨折し、安楽死の処置が執られた。, オグリキャップの母・ホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。, 1984年のホワイトナルビーの交配相手には、小栗の意向により笠松競馬で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた[† 2]。鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かった[5]ことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した[† 3]。, なお、オグリキャップは仔分けの馬[† 4]で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円[9][10]とも500万円[11]ともされる。, オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向(脚が外側を向いていること)しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた[12]。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた[13]。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった[14]。, ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋ごろには他馬に見劣りしない馬体に成長した[15]。気性面では前にほかの馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった[16]。, 1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場[† 5]に移り、3か月間馴致を施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったため吉田の目を引き、調教を施されることが多かった[17]。, 当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人懐っこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている[18]。また、ハツラツは育成牧場にいた馬のなかでは3、4番手の地位にあり、ほかの馬とけんかをすることはなかったという[19]。食欲は稲葉牧場にいた頃と変わらず旺盛で、その点に惹かれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった[20]。, 1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」[† 6]。, 5月19日のデビュー戦では能力試験で記録したタイムが評価されて2番人気に支持されたが、3コーナーで他馬に大きく外に振られる不利を受け、最後の直線でマーチトウショウにクビ差で追い込んだものの2着に敗れた[22]。しかし調教師の鷲見はオグリキャップの走りが速い馬によく見られる重心の低い走りであることと、その後2連勝から実戦経験を積めば速くなる馬と考え、短いときは2週間間隔でレースに起用した[† 7]。結局デビュー4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れたものの、5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。, 前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした[23][21]。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」という[24]。また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替している[† 8]が、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの蹄は蹄叉腐乱(ひづめの内側が腐る疾病)を起こしていた。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している[26][† 9]。, 1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し[28]、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。, オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、とくに中京競馬場(当時は地方と中央の共同使用)の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝[† 10]して以降は申込みが殺到した[30]。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た[29]。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていた[† 11]ため、すべて断っていた。これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した[32][33]。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した[† 12][35]。, なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した[† 13][37]。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった装蹄師の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた[27]。, 中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。, オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれ、鞍上は佐橋の希望により河内洋に決まった[38]。地方での快進撃は知られていたものの、単勝オッズは2番人気であった。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始。第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく[† 14]、優勝は予想を上回る結果だった[40]。このレースで実況を担当した杉本清は「これは噂にたがわない強さだ」と実況した[41][42][† 15]。, 移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった[43][44]。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。河内はレース後のインタビューで「2着馬との差はクビでしたけれど、着差以上に強い勝ち方をしたと思います。まあ、距離の2000mもこなしましたが、この馬に一番の似合いの距離は、前走のペガサスステークスのような1600メートル戦じゃないかな」と答えた[45]。, オグリキャップはクラシック登録[† 16]をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。このレースでは後に主戦騎手となる南井克巳が鞍上を務め、オグリキャップ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した[46]。, クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりにニュージーランドトロフィー4歳ステークスに鞍上に河内が復帰して出走した[† 17]。この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていた[48]が、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコードであったにもかかわらず、騎乗していた河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった[49]。このレースでのオグリキャップの走破タイムは、同じ東京競馬場芝1600mで行われた古馬GIの安田記念よりも速かった[50](レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)。, 続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初[† 18]の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝[† 19]を達成した。, 高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑 [† 20]を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い[51]、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された[52]。, 毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成した(メジロラモーヌと並ぶタイ記録[† 21])。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した[53]。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた[54](レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照)。, 続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝中[† 22]であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)。, 天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ[55]、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された[55]。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり[56]、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。レース後、佐橋の意向から瀬戸口を通じて岡部幸雄に騎乗依頼が出されたものの、岡部は「西(栗東)の馬はよくわからないから」と婉曲に断った[57][58]。しかし瀬戸口がその後も粘り強く交渉を続けた結果、岡部は「一回だけ」という条件付きで依頼を引き受けた[59][60]。, 有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった[61][† 23]。瀬戸口はオグリキャップを血統からマイラーと見ていたため「2500mは長いのではないか」と感じていたが、岡部は「充分にこなせる」と手応えを感じた[63]。タマモクロスはファン投票1位、当日の単勝オッズも2.4倍で1番人気で、オグリキャップはタマモクロスに次ぐファン投票2位、単勝も3.7倍で2番人気での出走となった[63]。瀬戸口はレース前に岡部に「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示し[65]、レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し[† 24]、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照)。 第48回(2003年) シンボリクリスエス ニュース. シンジケート・種牡馬の事務管理等 ワイルドラッシュ、タイキシャトル、ブライアンズタイムなど数多くの活躍馬を生産界へ導入。 これまでに100頭を超えるシンジケート・種牡馬のマネージメント(事務管理・運営)を行っています。 第67回(2017年) サトノアラジン 第11回(1961年) ホマレボシ 第35回(1985年) ニホンピロウイナー 第28回(1998年) シンコウフォレスト 第41回(1996年) サクラローレル 第10回(1960年) オンワードベル オグリキャップ(Oguri Cap、1985年3月27日 - 2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬である。, 1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において[1]、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される[2]高い人気を得た。 menu. 第09回(1979年) ネーハイジェット 第12回(1967年) カブトシロー 第08回(1958年) ラプソデー 第08回(1963年) リユウフオーレル 第18回(1968年) シエスキイ 第04回(1959年) ガーネツト 第58回(2013年) オルフェーヴル 第06回(1989年) オグリキャップ 第03回(1986年) タカラスチール 2020年の種牡馬の種付け料を高額順に紹介。圧倒的な掲載頭数のため、軽く読み流せるように視認性高めに作りました。2019年の種付け数も掲載しているので、馬産地人気の参考にしてください。 第23回(2006年) ダイワメジャー, 第24回(2007年) ダイワメジャー 第62回(2017年) キタサンブラック 第09回(1992年) ダイタクヘリオス 第01回(1984年) ニホンピロウイナー 第53回(2008年) ダイワスカーレット 第30回(1985年) シンボリルドルフ 第07回(1962年) オンスロート 第29回(1979年) ロイヤルシンザン 第29回(2012年) サダムパテック 第27回(1982年) ヒカリデユール 第17回(1987年) ランドヒリュウ, 第18回(1988年) オグリキャップ 第19回(1989年) メジロアルダン 第68回(2018年) モズアスコット タマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した[66]。, 前述のように、オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会(JRA)に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こった[67]が、実現しなかった。このことからクラシックに出走できなかったオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた[68]。調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え[69]、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている[70]。一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった[71]。なお、前述のように1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入した。[† 25], 1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄に脱税容疑がかかり[72]、将来馬主登録を抹消される可能性が出た[73]。これを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は翌1989年2月22日[74][75]、近藤俊典へオグリキャップを売却した[† 26]。売却額については当初、1年あたり3億であったとされた[77][78]が、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている[79][† 27]。ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており[81]、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた[† 28][83]。また、売却価格の高さも指摘された[† 29][86]。オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消された[87][88]が、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した[89]。, 陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(人のかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江敏郎[† 30]が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療[† 31]が行われた[90]。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた[91][92]。, オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し[93]、9月のオールカマーで復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「"怪物伝説"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった[94]。, その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された[95]。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した[96]。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる[97](レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)。, 天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップ騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べている[98](レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)。, 続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く[† 32]、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」[100]、「届くはずがない」[101]と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨んでいた。勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した[98](レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)。, 連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース(逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8)でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコード[† 33]である2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた[† 34](レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)。, 陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された[102][† 35]。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた[104](レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照)。, 夕刊フジの記者伊藤元彦は、このレースにおけるオグリキャップについて、次のように回顧した。, 3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった[† 36][† 37][† 38]。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた[108]。, 調教師の瀬戸口はマイルチャンピオンシップ後にジャパンカップにオグリキャップを出走させる際、このローテーションを巡って起きた議論に対し、「あの馬には常識は通用せんのや」と発言した[109]。しかし、連闘に加えオールカマーに出走させたことについては「無理は少しあったと思います」と述べた[110]。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している[111]。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている[110]。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した[110]。, 一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。これは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている[112]。, 有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに[113]、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された[114]。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった[115][† 39]。, オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された[119]。この競走では武豊が初めて騎乗した。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。, 続く宝塚記念では武がスーパークリークへの騎乗を選択したため[† 40]、岡潤一郎が騎乗することとなった。終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫(脚の関節に柔らかい腫れが出る疾病)を発症、アーリントンミリオンステークスへの出走を取りやめて7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った[120]。, 陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた[121][122]。最終的に出走が決定し、このレースでは増沢末夫が鞍上を務めたが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた。, ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり[† 41]、馬主の近藤に宛てた脅迫状(出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容)が日本中央競馬会に届く事態にまで発展した[125][126][† 42]が、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定し、また、鞍上は安田記念以来となる武に依頼した。有馬記念のファン投票では14万6738票を集めて1位に支持された[128]。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、最終直線残り2ハロンで先頭に立ち、追い上げるメジロライアンとホワイトストーンを抑えて1着でゴールイン、2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾った。限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった[129]。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった[† 43]。この現象について阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している[131](レースに関する詳細については第35回有馬記念を参照)。, 1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。, 調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている[132]。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた[† 44][† 45]。天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している[135]。厩務員の池江は、馬体の回復を考えれば競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設にもう少し滞在したかったと述べている[136]。, 精神面に関しては、瀬戸口[† 46]と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた[† 47]。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している[138][† 48][† 49]。池江は、撮影スタッフの振る舞いについて次のように証言している。, それだけやない。馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。, 体調に関しては、第35回有馬記念に優勝した時ですらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄[† 50]や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功[† 51]がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もレース後に「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」と回顧している[144]。レース前のパドックでオグリキャップを見た作家の木村幸治は、その時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」、「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」、「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている[145]。しかし厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ……」と囁きあったという[146]。また小説家の高橋源一郎によると、レース二日前の21日にサンケイスポーツ主催で催された「有馬記念前夜祭」に出席した際、打ち上げの席で野平祐二にオグリキャップの具合について訊ねたところ、野平は「わたしには悪いようには見えません。みなさんはいろいろおっしゃっていますが、わたしの見た限りでは、そんなに悪い状態には思えないのですよ」と答えたという[147]。, 中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の時点で既に備えていた[148]が大敗を続けた時期にはなくなっていたスポーツ心臓[† 52]を有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた[149][† 53]。, ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析している[151]。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した[152]。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いいときと比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントをすべて引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した[153]。武によると有馬記念では第3-4コーナーを右手前で走らせた後直線で左手前に替えて走らせる必要があったが、左手前に替えさせるためには左側から鞭を入れて合図する必要があった。しかしオグリキャップにはコーナーを回る際に内側にもたれる癖があり、その修正に鞭を用いる場合、右側から入れる必要があった。そこで武は