現状では、重油の回収および流出防止措置は深海のため不可能であり、船体老朽化による破損・流出が憂慮されている。 2006年12月、「金沢大学 21世紀coeフォーラム ナホトカ号重油事故から10年、私たちは何を学んだか」が開催された。 今、私の中学校の総合学習で、日本の戦争についての調査をしています。 人類の歴史は戦争の歴史といわれるように、世界史の教科書をみれば、世界には有史以来、実に多くの戦争があったことがわかります。 古い時代から戦争画によって、多くの戦いの様子が記録されてきまし … 日本で、第二次大戦前又は戦争中に、戦争に反対したために投獄された人物は居ましたか? 今日、海や海洋を脅かしている最も危険で普遍的な要素の1つは、原油による汚染です。原油による海洋汚染の問題は、1967年3月18日にリベリア船籍のタンカー、トリー・キャニオン号がイギリス南岸で座礁し、未曾有の油濁汚染事故を引き起こした際に初めて国際的な注目を集めました。この事件では、10万トンもの原油が流出し、イギリス空軍が海面での汚染拡大を阻止するため、このタンカーを軍用機で爆破し、船内に残存していた原油を焼却しました。, この事件がきっかけとなり、世界各国がこうした潜在的な危険に注目するようになりました。それは、油濁汚染が船舶内で活動中の乗組員や水生生物、そして海洋を脅かすのみならず、それを越えた大惨事となるからです。海面に直射日光が当たることにより、海面に拡散した石油が蒸発して蒸気となり、最終的には雨や霧となって地上に戻ってきて、農作物や人間、そのほかの生物が危険に直面します。, 幾つかの統計によりますと、世界の海域では年間およそ1万4000件の原油流出事故が発生しているということです。それらの多くは小規模で、拡散した原油は回収されていますが、一部の事故は大惨事に発展しています。1989年には、アメリカ・アラスカ州のプリンスウィリアム湾で原油タンカーのエクソンバルディーズ号が座礁し、4200万リットルの原油が流出しました。また1993年には、イギリス・スコットランドとノルウェーの間にあるシェットランド群島付近で、リベリア船籍の大型タンカー・ブレア号が座礁し、9800万リットルの原油が北海に流出しています。(確認済み), 海洋汚染の主な原因が船舶であることは事実ですが、最大の汚染源は油田や油井プラットフォームにあります。2010年4月20日に発生したメキシコ湾での原油流出事故は、自然環境の最大規模の惨事の1つです。イギリスの石油大手BPの石油掘削施設「ディープウォーター・ホライズンでの爆発と火災により、11名以上の作業員が死亡しました。また、400万バレル以上の原油がメキシコ湾に流出し、不慮の原油流出事故としては最大級とされています。, メキシコ湾の油濁汚染は、300平方キロメートル以上に及び、この海域に生息する生物の多くを危険に陥れ、その生息地を破壊しました。原油が拡散してから数週間後には、ハタやフエダイを獲るために事故現場付近の海域に出かけた漁師たちが、これまでに見たことのない奇妙な病班や、裂傷のある魚を捕獲しています。この地域で行われた調査の結果、口の開いた傷や寄生虫による腐敗、原因不明の黒い斑点は、この事件から数年が経過してもなお、この地域の海中生物に影響が及んでいることを示していることが明らかになりました。海底深くに生息するサンゴや海草類、イルカやマングローブなどの動植物も、原油の流出による被害を受けています。, 世界で、常に油濁汚染の危険にさらされている海域の1つは、イラン南部のペルシャ湾です。ペルシャ湾には、25基に上る大型の石油採掘プラットフォームがあり、さらに世界のタンカーの航行の30%を占めています。ペルシャ湾の湾口にあたるホルモズ海峡は、毎年2万隻から3万隻のタンカーの航路となっています。多数のタンカーの往来による数万トンもの石油の流出により、この海域は世界でもっとも汚染された海洋環境の1つとなっています。イラン自然環境保護機関のキャルバースィー海洋環境担当副長官は最近、あるインタビューにおいてこの事実を指摘し、次のように述べています。「2000年から2009年までの期間に、運搬により11万4000トンの原油が流出した。だが、2009年から2015年の間には、9万3000トンから13万5000トンが流出したと見積もられている」, タンカーの往来に加えて、ペルシャ湾には現在採掘を行っている800の油田・ガス田を抱える、34の産油地域や天然ガスの生産地域が存在します。特殊な状況における原油の噴出が、大惨事を引き起こす可能性があることは言うまでもありません。これまでに行われた調査からは、このような状況により世界における原油による汚染の3.1%がペルシャ湾のものとされており、これは世界平均の47倍となっています。, 原油の流出による海洋汚染は、確実に動植物やそれらのエコシステムに破壊的な影響を及ぼします。それは、石油による油膜が酸素の吸収を妨害し、水生生物やそれらが必要とする要素を破壊してしまうからです。一方で、こうした汚染により日光が海底に届かなくなり、水生植物による光合成ができなくなります。, 海洋に生息する生物の体内に石油が入ると、多くの場合その生物は死滅します。そうした海中生物にはサンゴ、食用或いはそれ以外の魚、二枚貝や巻貝、軟体動物やイソギンチャク、海綿やクラゲ、ウミガメ、イルカ、サメなどが挙げられます。一方で、水中に栄養のある物質が存在しないことから、一部の水生生物は十分に成長できなくなります。海洋に入り込んでくる余剰物質の多くは、分解されないまま何年も海中に残留し、酸素を消費するため、海水に溶けている酸素が減少し、鯨やウミガメ、サメ、イルカ、ペンギンなどの海の生き物の生存に悪影響を及ぼします。, 海中の汚染物質を摂取した海洋生物は、食物連鎖のプロセスを通して、最終的には人間に到達し、人間の健康に影響します。これらの汚染物質は、人間の体内の組織に取り込まれて分解され、ガンなどの疾病や出生時の異常、さらには長期間にわたり健康に支障をきたすこともあります。, 海鳥も、油濁汚染による大きな被害を受けています。海鳥の翼に原油が浸透して、翼が互いに癒着することで、空中の飛行が困難、或いは不可能になります。さらに水をはじくという翼の性質が失われ、海水の冷たさをもろに受けて死亡にいたります。メキシコ湾の原油の流出事故では、6000羽以上の海鳥が死滅しました。, 海面に浮遊する原油はさらに、海中に含まれるミネラルと結合して重量を増し、次第に海底に沈殿して、大型の二枚貝などの底生生物(確認済み)やエビ、そのほかの着生植物にも破壊的な影響を与えます。さらに、このほかの重要な問題として、沿岸部に生息する水生植物への影響もあり、海草などの死滅が報告されています。, この数十年において、世界の多くの国々が海洋への原油の流出により自然環境の問題の高まりに神経を尖らせています。このことにより、国際社会は現在の問題を解消するための行動に乗り出しました。1969年には、原油による汚染に関する最も重要な取り決めが採択されました。しかし、この間に国際社会は、油濁汚染に関する地域の取り決めや国際条約を制定したのみで、各国の政府がこれを実行しなかったのでは無意味である、ということを実感しました。このため、この数十年において汚染源の制御、国際海域における各国の権限の範囲が、汚染取締り条約に沿って完全に法的な枠組みに治められるよう努力がなされています。これにより、各国間の干渉が阻止され、それぞれの国の権限が及ぶ範囲が明白に決められています。, これ以前にも、法的な取り決めによりタンカーをはじめとする船舶を原因とした汚染に関しては、その船舶の船主が責任を問われ、その賠償金を支払っていました。しかし、タンカーによる大規模な油濁汚染については、船主がその膨大な被害を賠償する能力がなかったため、1971年に油濁汚染による汚染損害についての民事責任に関する国際条約と、油による汚染損害の補償のための国際基金の設立に関する国際条約(確認済み)が定められました。その後は、大規模な事故においては原油の購買者により損害賠償のための予算が確保され、彼らが損害賠償の責任を負っています。, 1992年には、「1992年民事責任条約」と「1992年基金条約」の2つの条約が採択され、1996年から発効しています。1971年と1992年に採択されたこれらの条約は、被害者の損害を100%補填することはできないものの、一連の対立を解消する体制を生み出しました。これらの年に定められた基金は、その後の海洋汚染による被害者への賠償能力を有していたことから、かなりの割合で国際社会を満足させています。しかし、こうした賠償金の支払いにより、生態系が蒙った被害は完全に解消されたのでしょうか?. 重油は、 海鳥 などの海棲動物に付着して体温や体機能を低下させ、また揮発性成分や油分そのものの摂取等によって中毒を起こすなど、さまざまな影響を及ぼす。 勉強の参考にさせていただきます!また、よろしくお願いします。, ※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。 遅れて週刊朝日(91・2・15)が「『油の海鳥』もヤラセか」とアメリカの発表の仕方に「情報操作」の疑問を呈した。だが、毎日新聞以外の大手マスコミは、内々ではトチリの事実を知りながら、なんらの訂正の努力も見せておらず、イラク側の抗議を無視し続けている。 湾岸戦争の時、ペルシャ湾の海岸で「重油にまみれた海鳥」の映像が 世界を駆け巡りました。あとでこれは「やらせ」だったと言われています。 この映像で多くの国が多国籍軍に参加しました。 実態を伴わない「バブル経済」。これに疑問を投げ続けた者は 今の日本人は学校の歴史の勉強間違いを教えていますよね。 授業を聞いていても大東亜戦争のこを記したペー, 戦争についての質問です 戦争の中で、世の中を大きく変えた代表的な戦争を教えて下さい。 宗教的な変革で. お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894716 …, 日本の歴史、 戦争と飢饉について 太平洋戦争中〜戦後にかけて、日本は食料難だったとのことですが、江戸, 現在、 幕末〜太平洋戦争中と、 太平洋戦争中〜現代の 期間が同じになりました。 現在では、外国と戦争, 太平洋戦争は侵略戦争なのか防衛戦争なのか。 日本はハル・ノートが提出され、戦争を可決したと言われてい, 【戦争孤児】中国に取り残された日本人の戦争孤児を中国人は育ててくれました。 中国に滞在していた日本. 漂着前、船首部が福井県三国付近へ流れ着くことを予想していた者は少なかった。6日昼にも漂着の兆候は全く無かった。第八管区海上保安本部で現地対策本部長の職でもそうした予測はしていなかったし、漂着した7日の地元紙までが北陸での漂着しない旨の予測を掲載していた。後藤真太郎(当時金沢工業大学助教授)は風向きによっては漂着すると予想したがその根拠は直感に頼らざるをえなかった。しかしながら、1月の当該海域の平均海流を調べても陸向きのベクトルは少なく、これを用いて重油の漂着シミュレーションを行った結果、漂着しないという結果がでるのは自明であり、その結果を受けて「漂着しない」と新聞報道されたことが初動体制構築の遅れをもたらした。合成開口レーダで撮影された重油塊のデータがあるにもかかわらず使用されなかった。事故後アルゴスブイによる観測データを当たったところ現場海域は複雑な海流の流れ方をしていたと言う[3]。, しかし、卓越した西風による表面流は海流の移動力を遥かに凌駕しており、最初の重油漂着は1月7日午前3時半、福井県坂井郡三国町(当時。現・坂井市三国町)安島の越前加賀海岸国定公園内の海岸であり、続いて島根県から石川県にかけての広い範囲にも重油が漂着した。なお、流出したのは積載されていた重油の一部、約6,240キロリットルであった[1]。, その後、海上では海上保安庁や海上自衛隊が、重油が漂着した海岸では地元住民や全国各地から集まったボランティア、自衛隊などが回収作業に当った。石油連盟は「ナホトカ号流出油防除支援対策本部」を設置し、油回収機材の貸し出しを実施した[4][1]。, 三国町に漂着・座礁した船首部からはタンク内に残った重油の抜き取り作業が行われ、2月25日に完了した。陸上から船首部に向かって仮設道路が突貫工事で建設されたが、当初は躊躇していた洋上からの回収作業が進展し、船舶での回収2800KL、仮設道路からの回収は殿役で381KLであった[5]。この事故でガット船による油回収の有効性も確認された。, 重油が海岸に漂着したのは1月7日だが、それまで、日本国政府の関係省庁による非常災害対策本部が設置されなかった(初めて設置されたのは1月10日)ことが、被害を拡大させたとの批判が高まった。原因としては他に政府機関の連携体制の不備や、管轄が未確定な部分があったことなどが挙げられている。また、北陸地方沿岸の各府県市町村は、報道を見てそれぞれ独自に対策本部を設置したものの、連携はできていなかった[6]。, 本事故の対応として、ボランティアによる人海戦術が大きく貢献したが、油が漂着した場所の多くが岩場であり、機械力を用いた回収作業が困難であったためである。また、海上保安庁や日本サルヴェージによる船首部の曳航や、油回収船による対応が検討されたが、低気圧による時化のため断念されており、海上で対処することができなかったという事情もある。, 地元住民に加え、全国各地からの個人・企業・各種団体から、のべ30万人とも言われるボランティアが参加して回収作業が行われた。厳冬期の1月に事故が起こったことで、海からの冷たい風が吹き荒れる海岸での回収作業は過酷を極め、回収作業に当たっていた地元住民やボランティアのうち5名が過労などで亡くなるという二次被害が発生した。この件を契機に「ボランティア活動には危険もつきまとう」という事実が世間に知られ、ボランティア活動を行う者に対して「ボランティア活動保険」への加入を勧める活動が積極的に行われるようになった[7]。, また、ボランティア活動は次のような課題も残している。まず、マスメディアによって盛んに報じられた三国沖にボランティアが集中し、それ以外の、能登半島から鳥取県までの広範囲に及ぶ海岸に重油が漂着していたものの、あまり注目されなかった。そのため、三国沖以外の石川県沿岸自治体では、回収に協力したのは地元住民、および彼らによって組織された町内会やPTAといった互助組織が中心であった。また、ボランティアが使用した重油で汚損したビニール合羽が大量にゴミとして廃棄された。さらに、受け入れ側の住民がボランティア達への回収法や回収場所の教示などに忙殺されて疲労困憊し、ボランティアの受け入れを一時中止しなけなければならなくなった問題も発生した[8]。, 重油の流出範囲が当時の事前予想より広範囲に及んだことや、油まみれで柄杓を使って回収に当たる、自衛隊、海上保安庁、自治体職員、ボランティアなどの姿が繰り返し報じられた。このため、日本海産の海産物に対する風評被害が懸念され、行政ならびに漁業関係者側としてはその対応にも追われた。事故当時から現地に近い大学の環境専門家などが、調査研究を開始している。福井県立大学によれば重油に多く含まれる炭化水素の魚介類に与える影響は卵稚仔や幼生への影響が大きく、生体とは大きく異なると言う。唯一プラス材料として挙げられたのは流出したC重油は比較的固化し易い性質を持ち、同条件であるならば拡散の程度が他の油類より低い点である[9]。, 石川県水産課は当時漁業被害への関係から対応に忙殺された部署のひとつであるが、本当に有効に機能したのは当時偶々接続回線を設けていたインターネット経由でもたらされたエクソンバルディーズ号原油流出事故の情報で、留学経験のある職員が英語の原情報を日本語に訳し、「沿岸漂着油回収指針」の作成に役立てたと言う。また、当時の水産課には10年以上異動のないベテラン職員が複数おり、彼等はある対策を実行する際、どのような部署に何を要請・連絡すれば良いのか、制度的な仕組みを知悉していた。海難のための訓練で養った知識ではなく、日常業務を円滑にこなすために蓄積された経験知の集積であり、敷田麻美はこうした職員を「通常の行政システムを熟知した専門家」として重要視し、必要に迫られたとは言え専門外の分野までコメントしていた「即席の専門家」達を「冷静さを欠いていた」などと批判している。また、市町村にとっては海上災害防止センターの指示は遅れがちで、一般市民から寄せられた油回収のための「提案」も大半が役に立たなかったと言う[10]。, 自由民主党幹事長森喜朗は、1月10日に運輸省を訪れて「第八、第九管区の海上保安本部の所管範囲の境界が石川、福井県境にあるため、海上の重油処理が円滑に進められていないのではないか」と広域的な処理活動を要請した[11]。1月23日には首相の橋本などと共に日本海産の魚介類のイメージ回復のため、報道陣の前で蟹を食べて見せた。これは、菅直人が厚生大臣時代、O157問題でカイワレを食したひそみに倣ったものだとされた[12]。また、1980年代の文部大臣の時分からボランティアを評価するよう提言していた[13]森は後日、内閣総理大臣時に重油回収に当たったボランティアを、第149回国会の所信表明演説で引用したほか、総理大臣官邸ウェブサイトにても賞賛している[14]。, なお、当時現場で問題となった発言は船主代理人として派遣された海外の保険会社のスタッフが「賢い人間は、洋上で油は回収せずに、漂着してから回収するものだ」と発言し即座に第8管区の高橋次長が反論を行うといったやり取りであった。なお、アメリカでも日本でも洋上を漂流する油は専ら監視がメインの作業で漂着可能性のあるものだけを回収するというのが、本来の油回収の考え方として常識的な内容であった[15]。, 発災当時から事故関係の政治家の不祥事として批判されていたのは、当時の小松市長:北栄一郎が事故発生後、偽りの理由で休暇を取得し、サイパンに海外旅行に出かけてしまったことだった。この責任を取り北は市長を辞任し、後継市長選挙が1997年3月に実施された。北も再出馬をしたものの、県農水部長を務めていた西村徹(自民、新進、社民推薦)が当選した[16]。, 森や一川保夫(当時新進党)など石川県選出の国会議員は北の尻拭いをさせられる結果となり、西村も当選後の挨拶回りで両者を回っている[17]。一川は奥田敬和の秘書出身であり、候補者支援を巡っての森奥戦争の一幕という面もあった。, この事故に関し、日本国政府(海上保安庁、防衛庁、国土交通省)および海上災害防止センターは、重油の防除に伴い生じた損害賠償などの支払いを、ナホトカ号の船主などに対して1999年(平成11年)12月17日に東京地方裁判所へ提起した。原告は日本政府であり、被告は船舶所有者(プリスコ・トラフィック・リミテッド(ロシア))、船主責任保険組合(UKクラブ(英国))である。その後、2002年(平成14年)8月30日に和解が成立した。[18], 上記のように、補償上限を超えて査定額全額が補償された。なお、2条約による補償上限は1996年5月に、それまでの100億円から引き上げ改正が発効したばかりであった。この事件での補償額がそれを上回って、当時の歴代1位になる高額となったため、更なる改正が実施され、国際海事機関は2000年10月、補償上限を50%引き上げる決定をし、2003年11月に発効した。さらにIMOは2003年5月に追加基金議定書を採択し、2005年3月に発効し、それまでの2条約を含めて、補償上限は約1340億円となっている。, なお、日本原子力発電や関西電力および北陸電力も、個別に損害賠償請求訴訟を福井地方裁判所に提訴したようであるが[22]、その後については不明。, 本船は船齢25年を超える老朽船であり、船体構造を二重化した所謂ダブルハル構造になっていなかった。この構造を標準化させるため、発災時点で国際海事機関(IMO)はマルポール条約にタンカーの船体構造に関する規定を設けており、その規定では1993年7月6日以降に建造契約する積載量5000トン以上のタンカー、や現存タンカーの内積載量3万トンを越えるものについてはダブルハルとするように義務付けていた。しかしながらナホトカ号はどちらの規定からも漏れていた。そのため、同条約の改正が1999年11月のMPEC43で採択され、このようなタンカーは25年で廃船とするように義務付けされた。その後、1999年12月、エリカ号事故を契機に2001年4月のMPEC46で、また2002年11月のプレスティージ号重油流出事故(英語版)のため2003年12月のMPEC50にてダブルハル化の促進するための決議が相次いで採択されている。なお、条約改正に伴い日本国も国内法の海洋汚染防止法が改正され、寄航国による監督(Port State Control,PSC)も強化された[23]。, 上述した指揮系統の乱立問題については事件後、関係機関による縦割りの弊害を改善するため、中央防災会議は事故後の1997年6月3日、タンカーからの重油流出事故では警戒本部を設置するなど大規模な事故災害時の対策を盛り込んだ防災基本計画の改定が正式に決定された。この改定の以前は日本政府の定めた防災基本計画には自然災害のみで人災は含まれていなかったが、この機会に人災も包含された。また、1995年1月の阪神・淡路大震災時に指摘された各省庁ごとに分かれていた災害対策マニュアルも一本化が図られた[6]。, 事故後、運輸技術審議会での指摘事項を参考に、海上保安庁は下記のような機材の整備を図った[24]。, その他運輸省港湾局が油回収船3隻を調達し、関門海峡に「海翔丸」、名古屋港に「清龍丸」、新潟港に「白山」がそれぞれ配備された。これら3隻によって、出港から48時間で全国どの場所にも到達できる体制を整えた他、石油連盟、海上災害防止センターが大型油回収装置を導入している。, ただし、ハード面の整備だけでは十全な対策とは言いがたく、現場指揮権の一本化についても急には出来ないといった指摘がある[25]。関係者も年月が経てば高齢化し、地域の防災訓練に教訓が活かされていないという指摘もあり、ソフト面の配慮についても不断の必要性を求められている[26]。, この事件の復興支援として三国競艇場にて競艇SG競走のオーシャンカップ競走の第3回大会が開催された。, 船首部分からの重油抜き取りは一応完了しているが、水深約2,500mの海底に沈んだ船体からは、その後も重油の流出が続いた。現在も小規模な流出は続いているが、自然分解可能な程度である。また、年1回、海洋研究開発機構(JAMSTEC)が、深海探査艇により現状確認を行っている。現状では、重油の回収および流出防止措置は深海のため不可能であり、船体老朽化による破損・流出が憂慮されている。, 2006年12月、「金沢大学21世紀COEフォーラム ナホトカ号重油事故から10年、私たちは何を学んだか」が開催された。, ボランティアによる重油回収の経過は、2000年11月28日にNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で、「よみがえれ、日本海 ナホトカ号 重油流出・30万人の奇跡」として放映された。, 三国への漂着が予想外であった件については「座談会 ナホトカ号からの教訓と課題」『海と安全』No.532 P4-6, 畑幸彦 中村充「ナホトカ号重油流出事故と海の生物への影響」『Marine』1997年3月4日, 専門家、一般市民への批判的コメント、ベテランの行政職員への高評価については下記を参照, 「潮流=西村小松市長の永田町行脚 森、一川氏が綱引き 相乗り背に板挟み状態」『北国新聞』1997年4月17日, 「この10年における油濁補償制度の推移と今後の課題」『海と安全』No.532 P26-27, 「三国町で漂着油回収にあたった関係者の教訓とその後を追う」『海と安全』No.532 P71, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ナホトカ号重油流出事故&oldid=78959882, 「【特集】あれから10年 ナ号海難の教訓はどう活かされたか」『海と安全』No.532.