退任後は指導のほか、メディアにも活躍の場を広げ、2016年には再びオリックスで打撃や走塁の指導をしている。 その後欠番となったが、2001年、福本氏公認のもと、進藤達哉選手に受け継がれた。, 長池徳士氏は、1965年、阪急ブレーブス時代にドラフト1位で入団。 阪急からオリックスへと変わり、近鉄と合併し、チーム名も様々に変わってきたオリックスバファローズ。 「ミスターブレーブス」と呼ばれ、阪急ブレーブスの4番として活躍した外野手だ。 百貨店直営の売場の他、そごう神戸店時代より引き続き、紀伊国屋書店、ロフトなどが入居している。, なお、1995年1月までは三宮阪急(初代神戸阪急)が阪急三宮駅(閉店当時)の神戸阪急ビルに入居しており、三宮では24年8ヶ月ぶりの再開店となる。また、2012年までは神戸ハーバーランドにて神戸阪急(2代目)が営業していた。, 2019年(令和元年)9月30日まで営業していた西武高槻店を屋号転換した店舗。最寄り駅はJR高槻駅。阪急京都本線高槻市駅も徒歩圏内である。, 高槻市の「国鉄高槻駅前再開発事業」に対応して、西武百貨店が1971年「株式会社西武百貨店関西」を設立して関西1号店として出店。1973年に大規模小売店舗立地法が施行されたのを受け直営売場を削って各フロアに専門店を入居させる試みを行った、モール併設型店舗の先駆けであった。西武末期時点で紀伊国屋書店、ユニクロ、ロフト、タワーレコード、アカチャンホンポ、関西スーパーなどが入居しており、阪急転換後もそのまま残った。, 1970年(昭和45年)3月11日に千里ニュータウンの中心的な商業地区とされた北大阪急行電鉄千里中央駅に隣接する地区に開業した[9]。, 2005年(平成17年)3月期で売上高約181.65億円[85]、2006年(平成18年)3月期で売上高約189.34億円[86]、2007年(平成19年)3月期で売上高約191.55億円[87]、2008年(平成20年)3月期で売上高約193.56億円[88]と順調に売上を伸ばした。, リーマンショックが期中にあった2009年(平成21年)3月期に前年比でマイナスになって売上高約187.01億円[89]となり、翌年からも2010年(平成22年)3月期に売上高約172.54億円[90]、2011年(平成23年)3月期で売上高約173.17億円[91]、2012年(平成24年)3月期で売上高約172.65億円[43]と売上の減少が続いているものの減少幅は徐々に縮小し始めている。, 2011年(平成23年)に阪急阪神百貨店が店舗運営を3つの事業部に分けた際、当店は北摂地域の店舗や西宮と共に近畿の郊外店を担当する第二店舗事業部の所属となり、販売部門と商品部門を分けて各々の責任を明確化する体制へ移行した[92]。, 2008年(平成20年)11月26日に兵庫県西宮市の阪急西宮スタジアム跡地に開業した阪急西宮ガーデンズ[35]の核店舗として268店舗と共に[93]開業した[35]。, 高級住宅地を擁する西宮や芦屋を商圏とする特性を踏まえ、「西宮上質生活」をコンセプトとしているが、うめだ本店との差別化や都心ではない郊外型店としての日常性重視の観点から、メインエントランス周辺への海外高級ブランドではなくアクセサリーや化粧品など身近な雑貨を並べている[93]。, 子育て中の団塊ジュニア世代らの人口が増えている商圏の特性を踏まえ[95]、うめだ本店を大幅に上回る子供服や玩具の売場を設け[93]、教育熱心で富裕な家庭が多いため玩具売場の取扱商品もテレビアニメのキャラクター玩具は置かずに木製の知育玩具に注力し[93]、子供服売り場に無料で絵本を読めるスペースや育児教室を設置して百貨店から足が遠のいていた団塊ジュニア世代の集客に成功している[95]。, 当店で初めて設置されたコトコトステージという各売場に設けられた顧客参加型のイベント広場で調理教室や食育、着こなしやコーディネートの講座など取扱商品に関連するイベントを開いて生活シーンや使用価値を提案する仕組みは成功し[95]、博多阪急にも展開された[95]ほか、全館開業後のうめだ本店でも展開している[96]。, 当店の地方の物産展開催に合せて西宮ガーデンズ内のカフェでその物産を使ったメニューを出すなどショッピングセンター内の他店と連携したイベント展開を行い、開業初年度の売上高が最多というケースがほとんどの郊外型ショッピングセンターの常識を覆して阪急西宮ガーデンズの売上高が初年度の約659億円から開業2年目に約676億円へ伸びた[97]。, 当店も2010年(平成22年)3月期の売上高約191.9億円[90]から2011年(平成23年)3月期は売上高約217.63億円、2012年(平成24年)3月期で前期比6.6%増の売上高約231.97億円[36]とリーマンショック後の消費低迷の状況にもかかわらず2010年(平成22年)1月以降27ヶ月連続で前年を上回って売上を伸ばしている[98]。, 2011年(平成23年)に阪急阪神百貨店が店舗運営を3つの事業部に分けた際、当店は北摂地域の店舗と共に関西の郊外店を担当する第二店舗事業部の所属となり、販売部門と商品部門を分けて各々の責任を明確化する体制へ移行した[92]。, 阪急川西能勢口駅とJR川西池田駅の間にある約130店舗が入るショッピングセンターアステ川西の核テナントとして[99]1989年(平成元年)4月4日に開業した[9]。, 1995年(平成7年)に開業当初の2倍に売上を伸ばし、紀伊國屋書店などと共に再開発ビル6棟が立ち並ぶ駅前の賑わいの中核の一つとなっている[100]。, 2005年(平成17年)3月期で売上高約192.66億円[85]、2006年(平成18年)3月期で売上高約198.72億円[86]、2007年(平成19年)3月期で売上高約206.69億円[87]、2008年(平成20年)3月期で売上高約210.88億円[88]と順調に売上を伸ばし、リーマンショックが期中にあった2009年(平成21年)3月期は前年比でマイナスになったものの売上高約201.52億円[89]と年間売上高約200億円を数年間安定していた。, 2010年(平成22年)3月期はリーマンショック後の消費低迷を受けて前年比で大幅なマイナスになり売上高約186.36億円[90]、2011年(平成23年)3月期で売上高約184.58億円[91]、2012年(平成24年)3月期で売上高約181.05億円[43]と売上は落ち込んだものの、年間売上高約180億円以上を維持し続けている。, 当店の近隣で、阪急阪神百貨店の子会社である阪急商業開発がショッピングセンターモザイクボックス川西を運営している[42]。, 1993年(平成5年)4月15日に阪急電鉄宝塚駅の新ターミナルビル内に開業した[9]。, 当初は開業直前の1993年(平成5年)1月に設立された子会社の株式会社宝塚阪急が経営していたが、2002年(平成14年)4月に阪急百貨店が株式会社宝塚阪急を吸収合併している[86]。, 売場面積は小さいものの、2005年(平成17年)3月期で売上高約98.46億円[85]、2006年(平成18年)3月期で売上高約101.48億円[86]、2007年(平成19年)3月期で売上高約105.12億円[87]、2008年(平成20年)3月期で売上高約107.68億円[88]と順調に売上を伸ばし、リーマンショックが期中にあった2009年(平成21年)3月期は前年比でマイナスになったものの売上高約102.88億円[89]と年間売上高100億円を数年間安定して上回り続けた。, 2010年(平成22年)3月期はリーマンショック後の消費低迷を受けて前年比で大幅なマイナスになり売上高約93.02億円[90]、2011年(平成23年)3月期で売上高約91.67億円[91]、2012年(平成24年)3月期で売上高約89.06億円[43]と売上は落ち込み続けているものの、売場面積辺りの売上では他店と比べて比較的高い金額を維持し続けている。, 日本一の人口増加を10年間続けた兵庫県三田市の旧市街地本町に近いJRと神戸電鉄の三田駅前[103]で1982年(昭和57年)に再開発ビル建設の計画が浮上して百貨店大丸の出店が決まっていたが1993年(平成5年)に出店を断念したため、当社が出店することになったのが始まりである[102]。, しかし、商圏人口が予想より伸び悩んだことを理由に1994年(平成6年)に全フロアでの出店を取り止めて2フロアのみへ縮小する方針を打ち出し、保留床も買取から賃貸へ変更となった[102]。, 2フロアの内1階の食品売場部分もグループの食品スーパー阪急オアシスが運営し、2階のファッション売場のみを直営としてうめだ本店の菓子の取り寄せサービスなどで規模の小ささを補う営業形態となっており、人口の少ない郊外立地の実験店としての性格を持たせている[29]。, 2005年(平成17年)9月13日のビルの竣工式[102]を受けて、その翌々日の15日に三田駅前一番館(キッピーモール)の核店舗として開業した[101]。, 当店の入居するビルは3階と4階は専門店街で5階がレストラン街、6階に市が運営する「まちづくり協働センター」などが入居する複合施設となっている[101]。, 2011年(平成23年)に阪急阪神百貨店が店舗運営を3つの事業部に分けた際、当店は郊外の小型店を担当する第三店舗事業部の所属となり、販売と仕入を同一の部門が担当する体制に移行した[92]。, 2011年(平成23年)3月3日にJR博多シティの核テナントとして開業し[34]、九州へ初進出[104]した。, 「暮らしの学校」をコンセプトとして[105]西宮阪急で成功したコトコトステージという各売場に設けられた顧客参加型のイベント広場で調理教室や食育、着こなしやコーディネートの講座など取扱商品に関連するイベントを開いて生活シーンや使用価値を提案する仕組みを導入して2階を除く全フロアに大小20カ所設置してするなど物販以外のスペースが店舗面積の約15%を占めているほか、男性向けのコーディネート支援サービスも導入するなど提案型のサービス機能に注力している[95]。, 20代OLが低単価でも頻繁に買い物に来訪するをことを企図してファッションビル並みの低単価のレディスファッションを扱うハカタシスターズを設け、高級婦人服を扱う特選売場を設置しないなど主力の婦人服売場の商品の多くを単価1万円未満に抑えるなど、従来の百貨店の品揃えと大きく異なる商品展開を行っている[95]。大手百貨店が大都市の主要店舗で展開する富裕層や法人を対象とする外商を設置しないなど、珍しい営業戦略を採る[95]。, 当店の開業半年間での売上は約200億円で計画を約8%上回っただけに留まった[106]が、2012年(平成24年)3月期の売上高が約372.59億円と、初年度目標の370億円を少し上回り[107]、エイチ・ツー・オーリテイリングの連結決算も前期比8.7%増の売上高約5055.88億円で3年ぶりの増収となるなど順調な滑り出しを見せている[36]。, 2011年(平成23年)に阪急阪神百貨店が店舗運営を3つの事業部に分けた際、当店は主力店を担当する第一店舗事業部の所属となり、販売部門と商品部門を分けて各々の責任を明確化する体制へ移行した[92]。, 1984年(昭和59年)10月6日にグループ企業の東宝が朝日新聞社などと共に建設した有楽町マリオン内に有楽町西武と共に開業した[9]。, 同じ有楽町マリオン内の別棟に進出して情報発信型百貨店を標榜した有楽町西武と共にマリオン現象と呼ばれるほどのブームを巻き起こし[108]、有楽町から銀座の人の流れを変えたといわれた[109]。, 当初は地下食料品売り場が存在したが2000年(平成12年)7月月末で食料品売場を閉鎖して9月からファッション売場としてファッション専門百貨店となった[110]。, 若い女性の根強い支持を集めて[111]2005年(平成17年)3月期に売上高約140.99億円[85]、2006年(平成18年)3月期に売上高約145.76億円[86]、2007年(平成19年)3月期に売上高約145.78億円[87]と比較的安定した売上を保っていた。, しかし、同様に若い女性の根強い支持を集めている丸井[111]が2007年(平成19年)10月12日に有楽町マルイを直ぐ近くに開業させて[112]競争が激化したことに対応して化粧品売場などの改装を行ったが[88]、主力の婦人服が低迷して2008年(平成20年)3月期で前期比5.0%減の売上高約138.5億円と売上が減少に転じた[88]。, さらに、リーマンショック後の消費低迷を受けて2009年(平成21年)3月期に売上高約121.45億円[89]、2010年(平成22年)3月期に売上高約98.85億円[90]、2011年(平成23年)3月期で売上高約84.62億円[91]と急速に売上が落ち込み、売り場面積が小さいため増床した三越銀座店などと婦人衣料で競争し続けるのは困難だとして有楽町西武の跡にルミネが開業するのに合せて業態転換を図ることになった[113]。, 2011年(平成23年)7月18日に有楽町阪急としての営業を終了し[43]、同年10月15日に全面改装のうえ、メンズファッション専門館である「阪急メンズ・トーキョー」として開業して[43]黒字転換を図り[44]、改装後の売上は前年同期比で61.0%の増加として売上を回復させた[98]。, 新装開店時のキャッチフレーズは「世界が舞台の、男たちへ。」、イメージキャラクターに、歌舞伎俳優の市川海老蔵が起用された。, 複数のブランドの商品を一緒に並べた自主編集の売場が主体となっていて、顧客が自由に手に取って商品を見比べることが出来ると同時に複数ブランドを合せた提案を店員が出来る点で近隣の銀座地区に多い有名ブランドの路面店との差別化を図っている[74]。, 同じ有楽町マリオン内にあった有楽町西武は2010年(平成22年)12月25日に[114]閉店し[115]、その跡地にJR東日本グループのファッションビルであるルミネが2011年(平成23年)10月28日に開店している[116]。, 2000年(平成12年)3月17日に横浜市の港北ニュータウンに子会社が開業させたショッピングセンターモザイクモール港北の核店舗として[25]開業した[26]。, 開業初日に約10万人の客を集めて順調な滑り出しを見せた[26]が、2005年(平成17年)3月期で売上高約81.32億円[85]、2006年(平成18年)3月期で売上高約86.21億円[86]と業績の低迷が続いた。, そのため、周辺人口の増加や近隣商業施設の業態転換などの環境変化に対応して催事やポイントカード会員の拡大などを行って2007年(平成19年)3月期に前期比8%増の売上高約93.25億円[87]に伸ばしたものの、翌年度の2008年(平成20年)3月期で売上高約92.2億円[88]、2009年(平成21年)3月期に売上高約91.71億円[89]とその後は伸び悩んだ。, リーマンショック後の消費低迷を受けて2010年(平成22年)3月期に売上高約83.39億円[90]、2011年(平成23年)3月期で売上高約79.91億円[91]、2012年(平成24年)3月期で売上高約78.27億円[43]と一段と売上が落ち込み、赤字と見られているが低コスト運営などで黒字転換を目指している[44]。, 他店の業態転換により関東地区の店舗では最後の総合百貨店業態となっていた。しかし、徐々にフロアを縮小し、1階フロアも2020年1月19日をもって都筑阪急としての営業を終了した。その後も、地下1階の食料品フロアは営業を継続する。, 1953年(昭和28年)11月23日に東京大井店として開業した首都圏第1号店[9]。, 1971年(昭和46年)に店舗に隣接して一体的に増築された建物内にビジネスホテル[120]阪急ホテル(後にホテル阪急→阪急イン→アワーズイン阪急という流れで名称変更)を開業した。, 2000年(平成12年)4月に大井阪急をショッピングセンターに業態変換して阪急大井町デイリーショッパーズとし、その中で大井町食品館として営業していた[86]。, 2005年(平成17年)3月期で売上高約59.79億円[85]、2006年(平成18年)3月期で売上高約59.8億円[86]、2007年(平成19年)3月期に売上高約60.48億円[87]、2008年(平成20年)3月期で売上高約63.04億円[88]と安定して年間約60億円前後の売上を上げていた。, 周辺環境の変化や建物の老朽化に対応するために全面的に建替える当店を含む再開発が行われることになったため[121][120]、2008年(平成20年)3月31日に旧店舗を閉店した[88]。, 阪急大井町ガーデンの第1期分[120]が完成したため2011年(平成23年)3月16日に大井阪急食品館として新店舗を開業した。2012年(平成24年)3月期で売上高約47.45億円を上げ、2倍以上の売場面積を持つ阪神・にしのみややあまがさき阪神を上回った[43]。, 当店と同様に建て替えに伴い閉鎖されていたビジネスホテルのアワーズイン阪急も第1期の完成に伴い、地上30階高さ約100mで1,100室(全てシングルルーム)へ高層化して拡大し(フロントは3階、6階 - 29階に客室)、再開業した(現:アワーズイン阪急・シングル館)[119]。, このホテルは阪急阪神百貨店の100.0%出資子会社の大井開発が運営している[43]。, 第2期として地上14階地下1階の建物の建設が進められ、2014年3月に開業した。全館完成後は約18,000m2が商業施設として使用されているほか、5階 - 14階はアワーズイン阪急のツイン館(客室数288室、フロントは3階)としても使用されている[119]。, 第二次世界大戦中の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)下で阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併し京阪神急行電鉄が発足したため(1943年)旧・天満橋駅ビルの建物自体が旧・京阪電気鉄道から京阪神急行電鉄へと所有権が移り、1945年8月28日に解散した京阪デパート[3]の建物を買収して1946年に同店跡に食堂付きの天満橋マーケットとして開業した[23]大阪市内で2店目の店舗であった。, 1947年に株式会社阪急百貨店を設立して阪急電鉄から独立した[2]ことに伴い、天満橋マーケットも阪急天満橋支店として新装開店した[23]。, 京阪電気鉄道の淀屋橋駅までの延伸工事の際に地下を新線が通過する為に解体が決まったため1961年に閉鎖して京阪電気鉄道へ建物を返還してその歴史に終止符を打った[23]。, 一般の小売店による百貨店規制運動に対応し、1933年4月20日に創立総会を開催して設立を認可申請した日本百貨店商業組合に、当店も設立時から参画[19]しており、同組合は支店や分店の新設を制限する営業統制案を設立総会前日の19日に決定し[20]、この営業統制規程第三条を受けてそごうが阪神元町食堂の営業委託がその規定に抵触するとして断っていた[21]。, しかし、京阪神急行電鉄は駅に食堂を付属させることは当然認められるサービスと主張し、神戸・三宮に建設していた駅ビルに食堂設置[21]などを強行し、1936年4月11日に阪神急行電鉄神戸駅に完成した神戸阪急ビル内に神戸支店を開業した最初の支店だった[2]。, 神戸ハーバーランドに新店舗を開設した際に、新店舗を神戸阪急とすることになったため、以降は三宮阪急として営業を続けていたが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災により神戸阪急ビル東館被災(建物の大部分は解体されたが三宮阪急の部分はほぼ無傷で震災後も数日間は営業していた)修復工事のため退去してそのまま閉店となった[86]。, ビル解体後跡地は1999年に地上22階地下1階の三宮阪急ビルを2004年(平成16年)完成で建設する計画が発表されたが景気の低迷から断念し、暫定的なビルを建設して使用している[122]。地階は、いかりスーパー阪急三宮店が入居していたが、2016年1月に閉店した[123]。, 同年4月25日、一度は断念された「神戸阪急ビル東館」の建て替え計画が発表された。夏頃の着工・2021年の完成を目指すとのことである[124]。, なお、2019年10月1日付でそごう神戸店(2017年10月1日付でそごう・西武からエイチ・ツー・オー リテイリングに譲渡済み)が阪急百貨店に転換され、「神戸阪急(3代目)」となることが発表されており、阪急百貨店としては24年ぶりに三宮へ再進出することになる。, 1992年9月に街開きした神戸ハーバーランド内の店舗で、ダイエーや神戸モザイク[注釈 1]と同時に1992年10月1日に開業した[9][126]。開業当初の運営会社は同年4月に設立された子会社の株式会社神戸阪急だったが、2001年12月に営業の全てを阪急百貨店が引継いで株式会社神戸阪急は解散している[86]。, 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被害が神戸最大の商業中心地である三宮よりも少なかったため[127]震災の約2カ月後に営業再開し[128]、その直後は集客力がアップして売上が伸び、1995年3月期と1996年3月期の2年間だけは黒字となり[46]、1996年3月期に売上高約259億円を上げた[44]。, 客層の変化[127]などに対応するため2004年(平成16年)にベビー用品のアカチャンホンポを誘致したり[127]、2005年(平成17年)のダイエーの撤退[129]を受けて2006年(平成18年)2月1日にグループのスーパーマーケットの阪急オアシスを導入したり[130]、2006年(平成18年)3月期に子供関連売場のエンターテインメント性強化[86]などてこ入れを行ったが[127]、2011年(平成23年)3月期の売上高が約89億円と落ち込んだことから[129]、2012年(平成24年)9月末の賃借契約が切れる前の同年3月11日に閉店した[46]。, 当店の閉店に伴い、隣接して営業しているモザイクの運営会社タクトの株式40%全てを大家である三菱倉庫に譲渡して経営権も移行し、当地区から完全に撤退した[125]。, 店舗跡は隣接するHa・Re(ハレ)やモザイクと共に施設を所有する三菱倉庫などからイオンモールが受託して大型のショッピングセンターとして一体的に再開発し[131]、2013年(平成25年)4月18日にumieとして開業した[132]。, 1976年(昭和51年)10月15日に開業した[9]阪急京都本線河原町駅に直結するターミナル百貨店[133]。売場面積が広くなく、大丸・髙島屋といった近隣の老舗百貨店との差別化を図るため、デザイナーズブランドを中心とした若者向けのファッションに特化した店舗展開を行った[133][134]。, ピーク時の1991年は売上高約171億円を上げていた[135]。デザイナーズブランドブームが去ると競合店に客足を奪われ[136]、業績が低迷した。, 業績の改善を目指して2000年以降に2度の大規模な改装を行ったり[133]、2007年(平成19年)10月にグループの阪急電鉄が当店の向かい側の四条河原町北東角に商業施設「コトクロス阪急河原町」を開業した際、共同でスタンプラリーを行って四条河原町地区への集客力向上を図った[137]が、京都駅周辺との競争の激化や[138]ファストファッションなどの低価格の衣料専門店の台頭による「百貨店離れ」[139]などの影響により[133]売上高の減少に歯止めがかからず赤字が続き[135]、小規模な店舗で鉄道の乗降客数に大きく影響するほどの集客力を持たないことから[133]、2010年11月末のビルを所有する住友不動産との賃貸契約が切れる前[139]の同年8月22日に閉店した[45]。, 当店閉店後の跡地には、2011年4月27日に京都マルイが開業した[140]が、これも2020年5月12日に閉店した。, 東京都心初の店舗として、1956年5月29日にマツダビルディングに数寄屋橋阪急を開業した[9]。